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No43 神武東征はどのようにして行われたか? [日本の歴史]

その1 東征の目的
神武東征のことを書いておられる人は多いですが、失礼ながらチンプンカンプンです。どなたも、古事記と日本書紀に書かれていることから出発しておられるからです。書いてあることをどのようにひねくり回してもチンプンカンです。そこで、気の短い人は、これは神話だから、神武東征など無かったというストーリーに力を注いでいます。
私はこんなわけの判らないことに頭を突っ込む気は無かったのですが、古事記に書かれている神話は実際にあったことであると仮定して、日本史を解こうとし、もう少し、データーを集めてから書こうと思っていました。自分でも気がついたときには、神武東征のことを書いていました。それも、辻褄が合いそうなところから書いていました。
このままでは、話しがあちこちに飛びますので、データー不足のままで、神武東征のことを書いて見ます。
研究をしている皆さんと同様に古事記と日本書紀からはじめます。
 古事記には、神武は「何地(いずこ)に坐さば、平らけく天の下の政(まつりごと)を聞こしめさむ。なほ東に行かむ」と兄の五瀬命と高千穂宮で相談し、語り合った。
両書物とも漢字ばかりで書いてあります。古事記の方は、岩波文庫に書かれてあった翻訳です。是ではよく理解できませんので、私なりに意訳を記しますと、「一体どこの地であれば、天下を正しく治めることができるだろうか…?」「やはり,東へ行こう」とでもなるでしょうか?
日本書紀では、ニニギミコトが地上に降臨したときから、相当詳しい話が書かれ、塩土老翁の話しとして、次の話しがあります。「東の方に美しい国がございます。そこは青山が四周を巡っていて、その中に天磐船に乗って飛び降ってきたものがございます」。
余が考えるに、その地方はきっと国家統治の大業をひろめるために、天下に君臨するのに好都合なよいところで、たぶん国の中心に位置するところであろう。その、天から飛び降りたというのは、あるいはニギハヤヒであろうか。そこへ行って都を営もうと思うがどうだろうかと天皇は、諸皇子に相談しています。
 
 いつの時代でも、戦争をするとなりますと、必ず死者が生じます。家来の命を粗末に扱う指導者についていくものなど居ません。古事記に書かれていることは、ひどい話です。前後になにか文章が抜けているのでしょう。日本書紀のほうは、私は転記するのが、しんどいので触りだけを記しました。全部、辻褄があった文章です。一度、ご自分で読んでください。天磐船に乗って飛び降りた者が、ニギハヤヒであるのが判っているのであれば、天から天降ってきたなど、どうして書いたのでしょう。いろいろのことが想像できますが、想像しても仕方のないことです。
神武東征が実話であったとしますと、どれほどひどい話であっても死亡者がいくら出ても戦争をしなければならない理由が必要です。アメリカはテロによって二つのビルがやられました。アメリカがイラクを攻めるにあたって、そのテロ集団がイラクにいる、又はイラクがテロの連中を支援しているということを攻める理由にして戦争を始めました。思惑は間違っていましたが、10000人を超える人が死んだ今となっては、間違っていましたとは言えません。日本書紀を書いた人達は、神武天皇が伯耆はいたことにしたくなかったために、古事記を見ながら、古事記を見たということを知られないように、古事記に書かれている漢字は、すべて変えました。大山の麓にあった高千穂は、認めたくなかったので宮崎県の日向にしました。高千穂はどういう意味でしょう。漢字に意味があるとしますと、高い山で、穂が千ほどあるといいますから、山にぎざぎざがいっぱいあるということでしょう。九州の高千穂はそのような山でしょうか? どこから見てもそのように見える山など無いでしょう。漢字に意味が無いとしますと、意味不明となります。
一方、日向の方は、太陽に向かっているところを言います。山の東斜面または、南斜面です。小字では、東斜面が多いです。しかし、必ずそうとは限りません。この漢字の読み方は、にっこう、ひうが、ひおも、ひがた、ひなた、ひな、ひむかい、ひむき、ひよも、ひるが等があります。漢字よりひらかなにしたほうが、意味が良くわかります。もともと、日が当たる所という意味で、狭い部分につけられていた地名です。小字が似合っています。全国で200件ほどの日向地名があります。九州だけで10件ほどありますが、日向国には、一件しかありません。どうして国名になったのが調べる必要があります。
私は日本書紀を書いた人が、伯耆の高千穂は書きたくなかった。古事記に書かれている神武東征の出発地・日向も、島根半島の日向にはしたくなかった。どこかに日向はないかとなりますと、いっぱいありますが、宮崎の日向を思いついた。しかし、是は、大変なことになりました。次々と古事記にあることを書き換える必要が出てきました。
古事記に速吸門で釣をしている人に会ったとあります。これは岡山の高島を出てからのことになっています。日本書紀では宮崎の日向を出て直ぐですから、豊後海峡のことになります。両書とも、釣をしていた人に水先案内をして貰ったことになっています。古事記の方は、水先案内が必要な所は、明石海峡でしょう。ここは、小船ですと、潮の流れを知っていないと遭難するでしょう。明石を過ぎて尼崎のあたりでも、潮の流れは複雑で、遭難が多かった記録があります。豊後海峡も案内は必要でしょうか? 私は通ったことが無いので知りません。
古事記では、日向を出て、すぐに豊国の宇沙に行ったとあります。日本書紀では豊後海峡を通過して、菟狭に着いたとあります。宇沙と菟狭に注目してください。古事記を見ないで書いたのであれば、どこかで同じ字が使われていても当たり前です。徹底して同じ文字が無いということは、古事記を参考にして、参考にするどころか、古事記を抹殺する気がないとこのようにはなりません。古事記では神武は足一騰宮に泊めてもらい、ご馳走になりました。日本書紀では一柱騰宮に泊めてもらい、ご馳走になったあります。どのような建物でもどうでもいいと思うのですが、ここは、日本書紀の作者は古事記と同じことを書きたかったようです。古事記の「足」を止めにして、「一」にして判りやすいように書き換えました。大事な客なので、攻め込めないように、入り口が一つだったのでしょう。現在の宇佐の辺りは、標高ゼロですから、当時は湿地帯であった可能性はあります。読んで字のごとく、一本足の家を建てて、襲われることを防いだのかも知れません。その証拠に、古事記では、宇沙都比古(紀では、菟狭津彦)と宇沙都比(紀では、菟狭津媛)は、新たに泊まるところを作ったとあります。
日本書紀では、次に、11月9日に、筑紫国の岡水門に着かれたとあります。そして、12月27日に安芸国の埃宮に行かれたとあります。冬に向かって戦争をするものでしょうか?
地図をだしてご覧ください。豊後海峡を通過して、東に向かいますと、直ぐに安芸国なのに、何をしに菟狭にいったのでしょう。ご馳走になるためでもないでしょう。その上に、関門海峡を通って、遠賀川口の岡水門(おかみなと)に行ったとあります。まさか、旅行気分でもないでしょう。
古事記では、岡水門とは書いてありません。岡田宮を作って一年居たとあります。ということは、遠賀川口の岡水門は、敵の地であったので、通らないで宇佐を通って岡田宮のところまで行ったことが判ります。
記紀には、ほぼ同じことが書いてあると解釈したら大間違いです。この調子で一部を書き換えますと大変なことになり、藤原不比等の仲間は、日本中の神社の神さんを書き換えたり、何も無かった所に神社をつくったり、山まで造る羽目になりました。この話しはおいおい書くつもりです。
神武天皇は、戦争に出かけたのです。一番の敵は吉野ヶ里でした。岡田宮が参謀本部になりました。
タイトルの「東征の目的」は、古事記には書いてあったと思います。そこは消された上に、日本書紀では削除されました。漢人であった藤原不比等は、祖先の人が戦に負けたことは書きたくなかったのです。古事記には岡水門のことが書かれていたのだと思います。いっそのこと、これも日本書紀に書かなければ、判らなかったでしょうに、書いたばかりに、岡水門の上流に岡田宮があったことが判ってしまいました。

東征の目的は、漢人から絹を取り上げ、天孫族の世の中にするためです。

次回は、岡田宮のことを書きます。この部分は、日本書紀にも古事記にも書かれていません。私の独断場になります。とはいうものの、すべて田村誠一氏の本に書かれていることです。田村氏の説を補強するために、この周りのことを調べました。楽しみにしてください。


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