No53 逃亡先は 前原市か [日本の歴史]
イザナギとイザナミ、そしてアマテラスとスサノオとツキヨミが、ヒルゼンの高天原で、新しい世界を構築していたときに、日本はどのようにして出来上がったか古事記に書かれています。その中で、九州は、次のように書かれています。
「次に筑紫島を生みき。この島もまた、身一つにして面四つあり。面毎に名あり。故、筑紫国は白日別と謂ひ、豊国は豊日別と謂ひ、肥国は建日向日豊久士比泥別と謂ひ、熊曾は建日別と謂ふ」
豊国は後の世の豊前と豊後だとわかりますが、豊日別の意味が判りません。
他の島はどのように書かれているかといいますと、「伊岐嶋・天比登都柱。生津嶋・天之狹手依比賣。佐度嶋。」嶋の後ろに神の名前がついています。これは、この嶋を治めていた人の名前です。佐度嶋はだれも書かれていません。ということは、イザナギの直轄地であったことになります。女嶋・天一根。知訶嶋・天之忍男。兩兒嶋・天兩屋は、「天」の字がついています。苗族の人だったのでしょう。このように眺めますと、九州は「別」の字があります。天津族ではないという暗号でしょう。日本書紀の作者でも意味が判らなかったとみえ、筑紫島を筑紫州と字をかえて生れたとのみ記しています。古事記の編集者は、天武天皇が嘆かれたことのうち、乱れている系統を正すことに重きを置いています。
話しは複雑になりましたが、イザナギは天孫族と違う人を派遣して九州を治めさせました。江戸時代の外様大名を置いたようなものです。とは言うものの、始めはイザナギの系列の人がやって来たと思われます。
その証拠として、地名に注目してみます。
誰でもはじめての土地に来て、全体の様子を知ろうと思いますと、一番高い山に登って全体を眺めます。九州北部で一番高い山は、英彦山(1200m) ここに登って他の山の名前をつけたと思います。犬ヶ岳(1131m)、馬見山(978m)、その他に猫・鷹・鹿と動物の名前が目に付きます。イザナギの人たちが好んでつけた地名です。
田川郡添田町大字英彦山には英彦山神社があり、天忍穂耳命が祭神です。天忍穂耳命はアマテラスの子供で、ニニギの父になります。この山の辺りは、天孫族の勢力範囲だったと思われます。イザナギが活躍したのは、紀元前180年ごろではないかと思います。
古事記は、稗田阿礼が暗誦していたことを、太安万侶が書き写したことになっていますが、事細かく、稗田阿礼が現地に行って調べたことを書いておきますと、没収されますので、調査したデーターを暗誦したのだと思います。そのことは、古事記を読むと解ります。
稗田阿礼は、九州までは取材しなかったので、このように想像をして書いたのではないでしょうか? 古事記では、高天原でスサノオが大暴れをして田の畝を壊したことが記述されていますから、この頃に稲作が行われていたことは確かです。
墳墓から多くの漢鏡がでたところは、すべて中国人の墳墓だと思っています。しかも、その鏡が割られて出土したところは、漢人を殺した人の恨みが、一層激しかった所だと見ています。
九州で今までに私が集めたこうした遺跡には、スダレ遺跡、立岩遺跡、須玖岡本遺跡、三雲南小路遺跡、丸隈山古墳、石塚山古墳があります。このうち、スダレ遺跡、立岩遺跡は岡田宮に近くであることと、次の二つの神社にニニギが祀られていますので、ここの漢人はニニギに殺されたと思います。
馬見神社 嘉穂郡嘉穂町馬見 祭神 邇々岐命、木之花佐久夜比売外
荒穂神社 嘉穂郡大隈町牛隈 祭神 邇々杵命
吉野ヶ里の西の天草でも封鎖され、東も駄目ですから、北の糸島半島の前原市と春日市へ逃避したと思われます。ここでは三雲南小路遺跡と須玖岡本遺跡が見つかっています。
三雲南小路遺跡の様子を記します。
この遺跡は1822年に発見されましたが、大量に出土した遺物で現存するものは、聖福寺にある銅剣1本と銅鏡1面だけです。
福岡藩の国学者、の調査・記録があり、『三雲古器図考』(18822年『柳園古器略考』所収)
『筑前国怡土郡三雲村古器図説』(1823年)が残っていますので、1974年・1975年福岡県教育委員会が破壊された一号甕棺墓の破片から出土品を復元、
青柳種信の記録との照合の上、出土品を下記の如く報告しています。
このとき、隣接地に、二号甕棺墓を発見しています。
一号甕棺墓 (棺外) 有柄中細銅剣 1
中細銅矛 1
朱入小壺 1
(棺内) 細形銅矛 1
中細銅矛 1
前漢鏡 31以上
金銅四葉座金具 8
ガラス璧 8
ガラス勾玉 3
ガラス管玉 60以上
二号甕棺墓 (棺内) 前漢鏡 22以上
硬玉勾玉 12
ガラス垂飾 1
次に、須玖岡本遺跡です。
福岡平野のほぼ中央、春日丘丘陵にあります。
1899年、家屋建築の際、合わせ口甕棺から大量の遺物が出土。埋め戻される。遺物は破損無くなってしまった。その後、中山平次郎や京都大学が、調査を行い残る遺物の収集と報告を行った。
確認された出土品の内訳はつぎの通り。
銅鏡 30面以内
銅矛 5 (細形 4、中細形 1)
中細銅戈 1
銅剣 2以上 (多樋式 1、中細形 1)
ガラス璧片 2
ガラス勾玉 1
ガラス管玉 12
報告は 上記のなかには、鉄製品は書かれていませんが、須玖岡本遺跡周辺の低地にひろがる弥生時代の集落跡では、鉄器が発見されているとあります。《春日市教育委員会へん『奴国の首都 須玖岡本遺跡』》
須玖岡本遺跡の鏡群 すべて漢代の中国鏡。
草葉文鏡 3面 (前2世紀第3四半期)
星雲文鏡 6面 (前1世紀第2四半期)
重圏銘帯鏡 6面 (前1世紀第2四半期)
連弧文銘帯鏡 6面 (前1世紀第2四半期)
これだけ多くの鏡を埋葬されながら、首長たる人物は死亡しました。神武東征で死亡したとは限りませんが、可能性は大きいです。
吉野ヶ里征伐はかくして、終わりを迎えました。日本書紀はなにも伝えませんでしたが、古事記は、「竺紫の岡田宮に一年坐しき」と記したのみです。
>田川郡添田町大字英彦山には英彦山神社があり、
>天忍穂耳命が祭神です。
>天忍穂耳命はアマテラスの子供で、
>ニニギの父になります。
>この山の辺りは、天孫族の勢力範囲だったと思われます。
まず、重要なのは、全国にある高天原伝承地が、いつぐらいから、その伝承地が出来上がったのか?ということです。
実は、高天原伝承地の古いものは全て、高天原=大和国葛木=現・奈良県御所市高天周辺 とされているのは意外と知られていない。
高天原が、九州だとか、関東だとかされたのは、割と後世に出来上がった伝承だったりする。
天津神系(天神系、天孫系)というのは、大和国葛木のあたりの豪族家系ということ。天神系というのは、大和王朝の譜代大名のような存在であり、天孫系というのは、大和王朝の親藩大名のような存在といえば、分かりやすいだろう。
高天原=葛木あたりは、近畿地方の重要な河川の上流部が集結した地帯であり、また周囲を山岳部に囲まれた盆地であり、敵に攻められにくく、なお、近畿地方の重要な水源を抑えることができる、古代において地政学的に重要な地帯であった。
大和王朝は、大和の葛木から起こり、やがて、出雲を吸収合併(大和・忍穂耳命の長男・火明命と出雲・大国主の娘・天道日女命が政略結婚)することにより、初めて日本列島の大半を支配下に治めたわけで。
その後、天下を取った火明命は、天津と国津の両方の勢力者という意味から、天照国照彦を自称し、大和の始祖・天照として君臨した。
火明命は、大和王朝の日本全国支配を円滑にするために、九州を統治するために、弟のニニギ命を高千穂に派遣する。これをニニギ命の天孫降臨という。
by まあまあ (2008-08-14 14:52)
追加
大和王朝は、大和の葛木から起こり、やがて、出雲を吸収合併(大和・忍穂耳命の長男・火明命と出雲・大国主の娘・天道日女命が政略結婚)することにより、初めて日本列島の大半を支配下に治めたわけで。
このことは、播磨国風土記と国宝・海部氏系図の原文をみたら、すぐに分かります。出雲国譲りはなんだったのか?ということです。
by まあまあ (2008-08-14 14:55)
追加2
つまり、古代日本において、日本国皇帝の正統性は、出雲国譲りにあり、これは、出雲・大国主が娘婿の大和国王・火明命に平和的に降伏した話なのです。(播磨国風土記より) よって、大和の皇帝の地位は、火明命以降は、大和王家と出雲王家の両親を持つ香語山命(火明命の長男)の男系子孫に受け継がれていったわけです。
今の天皇家というのは、この火明命の弟のニニギ命で、兄の命令で九州高千穂に派遣されていた傍系家系なのです。そこで日向の知事をした後、若御毛沼命(後の磐余彦=神武天皇)の時に、大和王朝本国で内乱が起こったので、大和王朝宗家を助けるべく、援軍として駆けつけたのを、後世の人たちは神武東征と言っているのです。
しかし、その後も、形式的(祭祀上は)には、火明命の家系が日本国皇帝の地位にあり、ニニギ命の家系である神武皇統は、政治上の最高権力者に留まっていました。が、その関係は長く続かず、やがて、神武皇統が祭祀上の皇帝の地位も奪ってしまったのでしょう。このへんが倭国大乱であり、その結果、神武皇統は一族の女性で巫女ある百襲媛命をたてた。(卑弥呼共立) で、その百襲媛命(卑弥呼)の死後、崇神天皇の代で、神武皇統が完全に天下を取ったのでしょう。
by まあまあ (2008-08-14 15:09)
高天原
>高天原=大和国葛木=現・奈良県御所市高天周辺 とされているのは意外と知られていない。
ここは、2度にわたって歩いてきましたが、このような感じがしなかったように思います。面積が狭すぎるのと、このようなところに都を作ってもメリットがないように思いました。また、行ってもう一度見てきます。地名は、御所市ですから、高貴な人が住んでいたのでしょうが・・・。
by vetty (2008-09-23 09:56)
いま、薮田絃一郎著「ヤマト王権の誕生」が密かなブームになっていますが、それによると大和にヤマト王権が出来た当初は鉄器をもった出雲族により興されたとの説になっています。
そうすると、がぜんあの有名な出雲の青銅器時代がおわり四隅突出墳丘墓が作られ鉄器の製造が行われたあたりに感心が行きます。当時は、西谷と安来-妻木晩田の2大勢力が形成され、そのどちらかがヤマト王権となったと考えられるのですがどちらなんだろうと思ったりもします。
by 大和島根 (2008-10-16 22:40)