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No55 古代人のルール その2 [日本の歴史]

日本書紀に書かれた橿原宮は、現在の御所市の柏原であることが判っていただけましたか? 神武天皇はなぜ、この地に柏原宮を定めたのでしょう。
あるところに、施設を設けたり、地名をつけたりするときには、ルールがあったようです。
イザナギとイザナミは、淡路の多賀の地を全体の中心に考えたようです。そして、彼等がどのように日本を次々征服していったかということを古事記は書いています。どんどん子供を生んだという表現を使っています。先ず、水蛭子を産んだが葦舟に入れて流した。そして次に淡島を生んだと書いています。「こも亦、子の例(たぐい)は入れざりき」と記しています。とくべつの島なのだということです。その後に、大八島国かを征服していったのだと書いています。
征服したとは書いてなかったために、日本書紀の作者は、本当に、日本の島々がどのようにできたか、真面目に書いています。
イザナギが、その後、どのようになったかは、日本書紀は「そこで幽宮を淡路洲に作って静かに長くお隠れになった」と記しています。淡路島で死んだとは書いてありませんが、死んだということでしょう。古事記には、「淡海の多賀に坐(ま)すなり」とあり、滋賀県の近江の多賀に居られると書いています。ここで死んだとは書いていません。

淡路島の多賀に一宮の伊弉諾神社があります。中心地ですから、ここと関係ありそうなことを調べてみます。
①柏原の宮は淡路の多賀と同じ緯度に選ばれています。
②岡山の神島の山(海抜260m)と同緯度。
 神島の南2kmの沖に高島があります。ここは、神武東征の際に、吉備に高島宮を置いて、8年間滞在した記録がありますが、その高島だと考えられます。
③垂仁天皇の御代に現在の伊勢神宮内宮が創建されましたが、淡路の多賀の真東の朝熊山が測量の基準になったはずです。伊勢神宮はその朝熊山の麓に作られました。
 朝熊山から夏至には富士山に日の出をみることができます。この線上に伊勢湾の円錐形の神島(かみしま)があります。夏至に神島から昇った太陽は大江山の皇大神社内宮のところに沈みます。ここは崇神天皇の妹の日神子(ひみこ)が魏の難升米に人質にされ殺されたところです。日神子の墓は、その後、この神島と同緯度のところに箸墓古墳が作られました。
④御所市の柏原の本馬丘は、潮岬の真北に当たります。
 古代人は、いろいろのものを目標に選びました。その一つが岬です。自分達で、山を整形して目印にしたこともあります。その代表が全国に存在する高尾山や城山ではないかと思います。現在では木が生えて分かりませんが、案外、裸山であったり、頂上に背の高い木を植えていたかも知れません。
 日本海側に高い構造物のあとが、あちこちに見つかります。わからないものは、すべて、祭祀に関係するものであるというのが、史学界のパターンですが、高いものとくれば、その上から眺めるか、外から眺めたときの目標でしょう。上に上るのであれば、100mぐらい登ってもそれほど、遠くまで見えません。普通に考えれば、海からきたときの目印でしょう。その最大のものは、出雲大社だと思います。三内丸山の6本の巨大構築物も、その上にもっと高いものを積みましたのだと思います。最大の目標は、例えば鳥取の大山がそうだったと思われます。
⑤ 四国の剣山と加賀の白山を結んだ線と伯耆大山と熊野本宮と結んだ線の交点が、淡路の多賀です。

古代人は地図がなくても伯耆から津軽の岩木山を目標に進み、さらに十三湊の北の円錐形の山の真南に福浦があり行くことが出来ます。いや、逆ですね。苗族の人は、補給港として、福良を建設し、間違わなくて入港できるように、背後に円錐の山を加工しました。そして、海岸に目印の鳥居を立てました。
島根半島の高尾山の東南にも福浦があり、ここの海岸に鳥居が白く輝いて見えます。
福浦に限りません。先日、岡山の日生に行きました。帰り本土に向かう船からは、あちこちに三角形の山が見えます。殆どの港には、目印の山が見えるはずです。普通は山は三角形は少ないはずです。奈良の大和三山、三輪山なども姿がきれい過ぎます。目印にした可能性はあります。東西南北を揃えるのは、古代人のルールだと思います。


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