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No84 丹後半島には、四隅突出型墳墓がない [日本の歴史]

四角形の墳丘で、四隅に突出した部分を持つ墳墓が発見されたのは、1969年のことです。島根県瑞穂町の順庵原遺跡で当時中学校の教師であった門脇俊彦氏によって報告されました。その後、松江市来美一号墓、さらに安来市仲仙寺古墳群からこの形を持つ墳墓が検出され、1970年に四隅突出型方墳と名づけられました。
これらの墳墓は大きさはともかく、四隅を突出させ、貼石を持っていることを大きな特徴とし、祭祀系土器が多いことから、その墳墓の上で祭祀を行ったとも言われています。墳丘の項上には複数の墓穴がある場合が多く見られ、中でも埋葬の中心となる権力者の墓穴は最も大きく、深く造られます。突出部は、墳墓の上で祭祀を行う際の登り道という説もありますが、誰にも判らないのが、本当だと思われます。
作られた時代は、弥生時代中期だと書かれているものが多いですが、何故中期なのか、明確に、理由を述べてあるものは見当たりません。四隅突出型墳丘墓が最初に出現したのは,広島県の北部です。なぜ、突然、山の中から出現するようになったかが問題です。
四隅突出型墳丘墓の分布は、東は富山市の杉谷四号墓から、西は広島県千代田町の歳の神東遺跡まで、日本海沿岸の北陸・山陰から石見、江の川上流の中国山間地へと広がり、最近保存が決定した鳥取県妻木晩田遺跡・洞の原墳丘墓を含め、二九群六二基の墳墓が記録されています。
島根大学のホームページには、99ヶ所の四隅突出型墳墓が掲載されていますが、この分布は、福島1、富山 10、石川 1、福井 3、兵庫 2、岡山、1、鳥取 28、島根 37、廣島 15 になっています。川沿い、海岸の近くにあるのも、特徴になっています。

この墳墓が、渡来人のものであると仮定すると、朝鮮半島北部の滋江道蓮舞里で発見された墳墓に似ている。(上田正昭氏・古代出雲の研究課題)。基壇上に敷石の段差を二重に持つ(安養寺三号墳)ことから『高句麗将軍塚』に代表される高句麗積石塚に類似。(前島己基氏)が考えられます。
出雲はスサノオの勢力の強い所ですから、スサノオ系の墳墓も考えられますが、そうであれば、弥生時代前期からあっても良いとおもわれます。

この墳墓は、どの系統の人のものであるか不明です。どうしても、墳墓があるところについて考えがちですが、不思議なことに、この墳墓は、丹後半島にはありません。四隅突出型墳丘墓が、島根県の方から、福井県のほうへ広がったか、福井県のほうから島根県の方へ広がったか判りませんが、丹後を飛ばす理由があったはずです。
丹後半島には、四隅突出型墳丘墓を利用する人と違う人たちがいたということになります。
ニニギ命が、高千穂に降臨したときに、長男である彦火明命が、そのような特別な人が住んでいる丹後に降臨したと思われます。


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