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No137 魏鏡と呉鏡  その2 [日本の歴史]

今度は、魏鏡です。 238年ころを中心に資料を記します。
青龍三年(235)   方格規矩神獣鏡    大阪府高槻市安満宮山古墳
青龍三年     方格規矩神獣鏡    京都府太田南5号墳
景初三年(239)   画文帯神獣鏡     大阪府和泉市黄金塚の中央棺
景初三年(239)   画文帯神獣鏡     京都府太田南5号墳
景初四年(239)   斜縁盤龍鏡      京都府福知山市広峰15号墳
正(?)始元年   三角縁神獣鏡     群馬県高崎市柴崎古墳
正始元年(240)   三角縁神獣鏡     山口県御家老屋敷古墳
正(?)始元年   三角縁神獣鏡 兵庫県豊岡市森尾古墳

なにか気がつかれましたか? ① 景初四年 ② 丹波・丹後に4つ ③三角縁神獣鏡
です。景初四年(239) の(239)は間違いではありません。魏の明帝は景初3年の1月1日元旦に亡くなりました。現在の日本ですと、この年に改元です。景初3年1月2日から、正始元年です。ところが、広峰15号墳から発掘された鏡には、「景初四年五月丙午之日」と書かれていたから、話がややこしくなります。景初四年五月に製作したとすれば、景初四年があったことになります。この謎は、この鏡が日本で作られたのであれば、解決です。作った人が皇帝の死を知らなかったと言うことになります。景初四年は13ヶ月あったと言う説から、作るときに間違ったとか、いっぱいありますから、読んで楽しんで頂ければいいかと思います。
 私としましては、そんなことより、この斜縁盤龍鏡の持ち主は、魏の国の人の持ち物であり、 福知山市に住んでいたことが重要です。墓は前方後円墳で、JR福知山より南よりの高台(福知山市内記13-1)に位置します。福知山を展望できる所です。この持ち主は、239年頃にこの鏡を受け取って、死んだのは何時か判りません。
出土品は、 
 一、盤龍鏡(景初四年五月丙午の銘) 一面  (径16.8cm)
  一、碧玉管玉(残欠共) 二個  一、刀剣類
  一、刀剣類 鉄剣 一口(全長35.4cm 身幅3.1cm)
        鉄槍 一口(全長37.1cm 身幅3.1cm)
  一、工具類 鉄斧 一個(長11.3cm 身幅9.0cm)
広峰15号墳から発掘された鏡で重要なことは、鏡が割られていなかったことです。割られなかったということは、敵方の者に壊されなかったので、出土品は揃っていたはずです。そこで、上に記しました。中国の軍人は死んだときに、鏡と玉と刀がセットで必要であったのではないでしょうか? 玉は日本史学会ではあまり問題にされていないようです。きれいだから、生前に使っていた装飾品として墓に入れたと思われていますが、そうではないと思います。被葬者が中国人であった証しだと考えます。
広峰15号墳の主人は、魏の国の人であったと考えていいと思います。
下記のアドレスで広峰15号墳の様子が判ります。
 http://www.kisnet.ne.jp/~matikado/hiromine.html
もう一つ考えて見ます。
京都府太田南5号墳は弥栄町字和田野小字下太田にあります。ここからは、青龍三年     方格規矩神獣鏡も出土。同型のものが、大阪府高槻市の安満宮山古墳から発掘されています。太田南5号墳からの鏡は割れていません。一方の安満宮山古墳の鏡は割れており、一部欠損しています。刀と玉の出土は不明です。外に、4面の銅鏡があります。その内の一面は三角縁神獣鏡です。安満宮山古墳は盗掘ではなく、荒らされたことになります。五面も埋葬されていたということは、相当位の高い魏の国の者と考えるべきでしょう。京都府弥栄町の方から進出してきた魏人と思われます。


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小林 攻一

【出雲国神原神社古墳より出土の景初3年銘三角縁神獣鏡。】

西暦238年(景初2年)6月、邪馬臺國女王俾彌呼の遣使難升米(ダン・スンミ)こと檀・蘇民(タン・ソミン)別名・須佐之男命と都市牛利(トヒゴリ)2名が登場する。
帯方郡太守の劉夏に魏國皇帝への朝献申請を行う為である。

西暦238年(景初2年)12月、難升米(須佐之男命)たちは、申請許可が下りたので、太守劉夏と共に魏國洛陽へ上献。

※西暦239年(景初3年)正月明帝崩御。

『三國志』巻四「魏書」三少帝紀第四条原文『(景初3年)十二月、詔曰「烈祖明皇帝以正月棄背天下(略)』と、明皇帝が景初3年正月に
棄背天下(崩御)。
この皇帝の死亡を公布したのは崩御後の景初3年12月の事である。

明皇帝が崩御してから、約一年間も秘密裡とした事情には、
激動乱世であった三国鼎立時代がその所以であろう。

皇室の下級官僚や諸侯そして中国人民の殆ど、そして鋳工たちは
皇帝の崩御を知るはずが無い。
従って、景初4年銘の銅鏡は既に景初3年中に製作鋳造しているのが
当たり前の事。

西暦240年(正始元年)は魏廃帝芳時代の年号。

西暦240年(正始元年)齊王芳の命令により、太守の弓遵等は、
天子からの手紙(漢文字)と金・帛(絹)・鏡などを持参のうえ
邪馬臺國女王俾彌呼まで挨拶に来る。

※魏国帯方郡の太守がわざわざ倭国の卑弥呼に接見している。

※出雲国島根県松江市の神原神社古墳より、景初3年銘の三角縁神獣鏡が出土している。正に魏国皇帝から届けられた“鏡”であろう。

西暦243年(正始4年)12月。
伊馨耆(イホキ)と共に掖邪狗(イサガ)等8人は正始元年に皇帝から
受賜した手紙と金・帛(絹)・鏡など、お礼の為に魏朝へ上献する。

2014年11月6日 小林 攻一


by 小林 攻一 (2014-11-06 20:02) 

vetty

コメント 早くに頂戴していましたのに、 今頃、気が付きました。ありがとうございました。 30/07/05
by vetty (2018-07-05 06:17) 

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