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No138 魏鏡と呉鏡  その3 [日本の歴史]

③から丹波・丹後は魏の国に支配されていたと思われます。しかも、太田南5号墳に埋葬されたときは、墓をあらされる恐れは無かったことになり、それよりも、高槻市へ進出していたことになります。
④の三角縁神獣鏡が問題の多い鏡です。どの鏡も魏鏡であるため、発見された当初は、卑弥呼が魏から与えられた100枚の鏡であると騒がれました。しかし、発掘される三角縁神獣鏡は直ぐに、100枚を超えることになりました。それどころか、500枚も超えています。
 三角縁神獣鏡はどのような鏡なのか、この問題ほど多くの人が関わっている鏡はないのではないかと思います。全部読んでいますと、頭がおかしくなります。ということは、どういうことかと云いますと、「よく判らない」と云うことです。
 No137では、3つのみ記しました。群馬県、山口県、兵庫県と離れています。私の幼稚な発想でいきますと、魏鏡が出土した墓は、魏人の墓ですから、群馬県、山口県、兵庫県に住んでいたことになります。私の仮定が正しいかどうかは、出土した三角縁神獣鏡をすべて調べれば判明します。
何を調べるかと言いますと、同時に、鏡が何枚出土したか。出土の状態。棺桶の種類。刀と玉の出土状況。同じ鋳型であったかどうか。ほぼ西暦何年の古墳であるか。(古墳時代前期などは意味がありません。丹後が初めだと思われますから、関東の方は年代が新しくなるはずです) 鏡が割れていたかどうか。盗掘にあっていたかどうか。
 予想では、現在、絹の産地である所では、必ず、三角縁神獣鏡が発見されるはずです。
環濠集落がある近くでは、一つの墓から複数の三角縁神獣鏡が出土しているはずです。
 目下、調査を進めていますが、少ししか調べていないのに、すでに嫌になっています。その内に、完成すると思いますから、完成したらお知らせします。さて、私の予想通りになるかどうかです。
 私の調査が完成するまでに、次の研究成果を掲げますから、参考にしてください。
出所は 朝日新聞のX年X月X日のものです。(コピーしたものですが、日付がありません)
大きなタイトルが三つです。「渡来工人の‘日本製’」「卑弥呼の三角縁神獣鏡」「邪馬台国畿内説に波紋」
このタイトルは、この新聞記事が発行されたときは、正しかったかも知れませんが、現在では間違っていると思います。私のつまらない講釈は後にして、どこが間違っているか一度考えてください。
 新聞を読む人は、中にはタイトルだけを読む人もいますから、タイトルだけでも、内容がある程度解るにすべきです。
「渡来工人の‘日本製’」です。渡来した人が作った日本製という意味です。中国人がやってきて作ったのであれば、中国製です。トヨタがアメリカで作った自動車は、日本製です。そんなこと、どちらでも良いではないかと思われた方は、三角縁神獣鏡の謎を解くことができないと思います。トヨタはアメリカのために車を作ろうと思っていますか? 工場を作って、その町の発展に寄与しようと。少しは思っているかも知れませんが、自分たちのために作っているはずです。続きはまた、後で書きます。
次は「卑弥呼の三角縁神獣鏡」です。私がこれまで述べてきたことは、間違っていたかもしれませんが、卑弥呼が魏の国へ使者を派遣したとされる時代は、238年とはっきり判っていることは、ご存知ですね。しかし、三角縁神獣鏡を貰ったとは、書いてありません。銅鏡100枚与えたと書いてあるだけです。このタイトルですと、卑弥呼が三角縁神獣鏡を貰ったことになります。朝日新聞への苦言は、これだけにしておいて、新聞の記事をそのまま記します。

三世紀、中国の魏(ぎ)が邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)に送ったとされる三角縁神獣鏡は、その文様構成、銘文などから見て中国製ではなく、中国から渡来した鏡作り工人の手になる日本製だ、と断定した論文が、最近出版された中国考古学界の機関紙「考古」第四集に掲載された。三角縁神獣鏡は邪馬台国畿内説の唯一の‘物証’扱いされ、邪馬台国以後の古代史研究にも一役買っているが、鏡の本家・中国の判断だけに、わが国の古代史学界に大きな影響を与えそう。
論文を発表したのは、中国社会科学院考古研究所の王仲殊・副所長。論文は「日本三角縁神獣鏡の関連に関して」と題して十五ページにわたって掲載されている。
 それによると、三角縁神獣鏡を日本製とする理由は、
① この種の鏡はこれまで中国で一枚も出土していない。
② 三角縁神獣鏡の祖形になっているような神獣鏡に安徽(あんき)省合肥の西晋墓から出土した二神二獣鏡があるが三角縁ではなく、斜縁である。
③ 神獣鏡は江南の呉(228-280)の領域内でつくられた鏡で、多くの平らな縁をしている。
④ 中国出土の神獣鏡の中に魏の年号を鋳出したものがあるが、これは魏で作られたことを示すのではなく、呉が魏に服属していた時期に、魏の年号を使っただけである。
⑤ 三角縁神獣鏡に魏の年号である「景初」とも読める年号があるが、日本に渡った呉の鏡作り工人が、邪馬台国と魏が親密な関係を結んでいることを知っていて、わざとこの年号をつけたか、魏の年号を使う習慣からそうしたと考えられる。
⑥ 三角縁神獣鏡には、中国にはない笠松形と呼ばれる文様がはいっている。
---など。論文では、これらの根拠として中国各地の発掘調査結果や史書の記載を豊富に紹介している。
また、日本で三角縁神獣鏡を製作したのは、神獣鏡や神獣鏡によく似た画像鏡を製作に従事していた呉の鏡作り工人以外考えられず、大阪府柏原市の国分神社蔵の三角縁神獣鏡の銘文にある「浮田(遊)天下、敖(遊ぶ)四海、用青同(銅)至海東」などは中国からの渡来人が作ったことを示す証拠としている。  以下省略
私の感想を記します。日本人は権威者に弱いように思います。この世界で、中国のナンバー2の方らしいです。だからと言って、すべてを信用しないことが大切です。①~④までは、信用して良いと思います。
王仲殊に関して、認めてもいいように発言されておられる方は、森浩一氏ぐらいです。其の他の方は、何がしの異論を呈しておられます。例えば、三角縁神獣鏡は倭の国への特注製品だから、中国には出土しないと言った論法です。

魏鏡と呉鏡について、3回費やしています。三角縁神獣鏡を卑弥呼が貰ったという説が、殆どの所で書かれています。今日、大阪府高槻市の安満宮山遺跡と闘鶏山古墳から見つかった三角縁神獣鏡がどのようなものであったか調べに行ってきました。行き先が間違っていて、訪れました「しろあと歴史館」と歴史民族資料館では調べることが出来ませんでしたが、ここで放映されていましたビデオでは、三角縁神獣鏡は卑弥呼が貰った銅鏡という説が有力であるとありました。これは間違いであろう。卑弥呼に銅鏡を100枚渡したと書いてありますが、それが正しいのであれば、魏の工人がつくった特徴のある三角縁神獣鏡が出土しなければなりません。現在のところ、出土した三角縁神獣鏡を調べると呉の国の鏡作りの人が作ったであろうと⑤で、王仲殊は述べています。
これが本当とすると、何故、魏の敵国である中国人が、呉の元号(赤鳥)を入れないで、魏の元号である景初を書き込んだか説明が必要です。王仲殊氏は、④、⑥で理由らしきものを書いておられますが、理由にならないと思います。
私の根拠もあまり褒められたものではありませんが、魏の職人は、三角縁神獣鏡をつくることが出来なかったのではないかと思っています。
その理由を次回に、書いてみようと思います。


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