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No266 持統天皇の謎の行動 伊勢行幸 [日本の歴史]

梅原猛氏は著書「海人と天皇」の中で、持統天皇の不思議な行動の一つとして、「伊勢御幸」のことを取り上げられています。
何度も読みましたが、納得にいかないことばかりです。
① 外宮に祭られている「豊受大神」が伊勢の本来の産土である。
② 「内宮」は「外宮」と違って、初めから天皇家の祖神を祀るために、持統天皇と中臣氏によって作られた神社であって、持統天皇はこの時内宮の社殿建築のために出かけたのである。
③ 天皇家の皇祖神としての天照大神という女神を自分と重ね合わせたのかも知れない。

私のとぼしい知識から、どの点が疑問であるのか記してみます。
① の記事は、なにを根拠にしておられるのか判りませんが、伊勢では外宮が先にできて
後から内宮が出来たことになります。
② の記事もはじめて接するものです。神社を作るために、わざわざ天皇が出かけられたことは、これまでにあったのでしょうか? 検討する必要があります。
③ 天皇家の皇祖神としての天照大神という説は、私も当然と思ってきましたが、古い記録には見た記憶はありません。古事記の崇神天皇のところに、伝染病が流行り、人民が死に絶えるほどになったことが記されています。困った天皇の枕元に三輪山に居られる大物主神が現われて、その原因は、宮中に祀っている神の折り合いが悪いからだと言われ、両方の神を宮中から出し、天照大神をお祀りする役を意富多多泥古(オオタタネコ)にさせたら事は収まったことが書かれています。私の計算では西暦200年頃のことです。
  天照大神をどこへ連れて行ったかといいますと、古事記には、どこであるとは書いてありませんが、日本書紀は、大和の笠縫村に祀ったと書いています。このときに、祭祀を行ったのは、豊鋤入姫命ですとあります。日本書紀にも、オオタタネコ(大田田根子)が出てきますが、オオタタネコは大物主の子供で、大物主を祀るように命じています。現在、奈良に笠縫という地名は存在しますが、そこではなく、いろいろ説がありますが、大神神社の北にある檜原神社の地であるとされています。 この地は元伊勢と呼ばれています。それは、祀られていた天照大神は、ここに鎮座することは困難であったらしく、鎮座地を求めあちこちさすらうことになります。この経緯は、伊勢神宮に伝わっている「倭姫命世紀」という書物に詳しく書かれています。檜原神社から次に移られたところが、丹波国吉佐宮(ヨサ)、次は倭国伊豆加志本宮(イツカシモト)と、50年ほどに渉って20数箇所を移動し、最後に、伊勢に落ち着かれたことになります。
「止由気宮儀式帳」によると「豊受大神」を丹波比治真奈井から伊勢に移したとの記述がありますから、「倭姫命世紀」も「止由気宮儀式帳」も全くあてにならない作り話であることを立証しない限りは、①②の結論をだすことは出来ません。丹波には、50以上の
「豊受大神」を祀る神社があります。外の地にはなくて、どうして丹波にあるのか、説明しなければなりません。
以前、元伊勢といわれている神社をすべて判かれば、崇神天皇の御世に、どうして天照大神が追い出されることになったか? 日本書紀に書かれているわけの判らない大物主の神話がわかるのではないかと考えて、すべて訪ねる気になりました。西は岡山県の伊勢神社、東は遠江国浜名宮にも足をのばしました。こうした元伊勢は、単なる伝承かも知れませんが、どうして、「倭姫命世紀」に書かれているところに、現在も伝承と神社が存在するのか、すべて誰かが作った話であることを証明するのは大変であることが判りました。それだけで、皆目判らず仕舞いでした。なにか判るのではないかと思いながら、考えたことを書いたホームページがあります。
元伊勢物語(http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page199.html)
天照大神の伊勢遷祀と元伊勢(http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page201.html)
 いくら元伊勢を調べても駄目であることが判りました。そこで、「豊受大神」を祀る神社を巡ってみようと考えました。これも、途中で投げ出しています。
肌で感じたことは、外宮に祭られている「豊受大神」が伊勢の本来の産土ではなく、丹波・丹後の神さんだと思います。ではどうして、伊勢の外宮に入られたかは判りませんが、天照大神と並ぶ力があったことは確かだと思います。
最後は、三番目の天照大神は皇祖神であり、女神であるという話です。皇祖神であるかどうかは、今回は飛ばすことにします。女性であるかどうかです。現在の歴史界では、女性と言うことになっています。
根拠は二つです。古事記に、神御衣を織っているところに、天照大神が居る所へスサノオが、攻撃するシーンが描かれていて、天の服織女が死んだことになっています。だから天照大神も神御衣を織っていたのであろう。すなわち、女性である。もう一つは、日本書紀にあります。追放されたスサノオが天照大神に挨拶に来たというシーンがあります。天照大神に、どうしてやってきたのかと聞かれたスサノオは、「私が参上したのは、本当に姉上にお目にかかりたくてです」とあり、間違いなく「姉」と云っているからです。
 たったこれだけのことで、女性であると決め付けるのはひどいと思います。古事記にも書かれているのであれば、まだしもです。ここの話は、地上界のことではなく、天上界(高天原)のことであるということになっています。そのような所はあるのでしょうか? 
 古事記に書かれていることを、悉く否定しようと、古事記を参考にして日本書紀は作られました。ところが、古事記に書かれたこの部分は、なんのことか日本書紀の作者には判らなかったと思われます。日本書紀はよく判るように書き換えました。そして、天照大神は姉上にしました。 もう一度、古事記を読んでください。スサノオと天照大神はイザナギから生まれたことになっています。日本書紀にはありませんが、その時、同時にツキヨミ命も生まれたことになっています。死んでしまったイザナミに会いにいったイザナギが、穢れたものを見たので、禊をしているときに生まれたのが、スサノオと天照大神とツキヨミ命です。どこから生まれたか古事記に書かれていますから、一度、読んでください。きっと、わけが判らないと思います。同じように、日本書紀の作者も判らなかったと思います。
このような事で、天照大神が女性と断定することが許されるのであれば、私の説も許されると思います。スサノオの乱暴に危険を感じた天照大神は、天の岩戸にこもります。そうすると何故、世間が真っ暗になったのか分かりませんが、これでは住むことが出来ませんので、天照大神に出てきて貰おうと、いろいろの策を考えます。天宇受売命(あめのうづめ)
が受け持ったのは、胸乳を出して、下部も裳緒を垂らした状態で、今風にいえば、ストップをして踊りますと、大爆笑となったことが述べられています。その場にいた者が、皆喜んだことになりますが、天照大神をも喜ばそうとの魂胆であったと思われます。ストリップを見て喜ぶのは男性だけです。このような説明ではだめでしょうか? 歴史だからと云って、そう難しく考える必要はないと思います。
 話は、持統天皇の伊勢行幸に戻しますと、持統6年(692)2月に伊勢に行きたいので準備をするように命じます。これに対して、中納言三輪高市麻呂は農繁期なので思いとどまるように進言します。このような言動は許されないのではないでしょうか? 大袈裟にいえば、職種の地位を賭けたというか、命を賭けた進言をしたにも関わらず、伊勢へと出かけます。
 日本書紀は、その後の様子を詳しく記しています。
3月6日に出発します。
3月17日、通過した神郡と伊賀・伊勢・志摩の国造に冠位を与えたり、この年の調役を免じたり、郡県では、物を与えたりしています。
3月29日、近江・美濃・尾張・三河・遠近などの供奉した騎士と諸国の荷丁・行宮造営の役夫の当年の調役を免じています。
日本書紀には、その他、書ききれないほどの物を与えた記事で埋まっています。持統天皇も自分の死期のせまっていることを知っていたのではないかと思えるほど、壬申の乱のときに、自分が御世話になった人に、お礼を言うために行脚されたのだなと思いましたが、ある本によりますと、この時に及んでも、まだ、天皇は自分の権力を示すために、物を与えたと書いておられる方もありました。
 人間と言うものは、わずかなことから、推理を働かせ、同じ材料から出発したにも拘らず、反対の結論を導くことのできることを知りました。
おそろしい事です。
書きませんでしたが、歴代天皇で、伊勢神宮にいかれたのは、持統天皇と明治天皇だけだそうです。この部分は、なぜ、持統天皇が、部下の忠告を無視してまで、伊勢行幸に出かけたかを解明するための大きな部分とおもいます。
とはいうものの、素人の私が、歴史の大家である梅原猛氏に少し、噛み付くことも許されることに感謝をしつつ、梅原猛氏に、すみませんと謝りたい気持ちも持っていることを書き添えたく思います。 


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