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No268 持統天皇の時代を眺める その2 [日本の歴史]

No267で持統天皇のことを書くのはやめようと思っていました。しかし、女帝時代がなぜ、日本では続いたか、それを解明するために続けてきました。持統後、元明、元正と続きますが、この二人は、日本書紀に書かれていません。これまでの手法と同じようには行きません。
皆目、解明できないままでは、なにをしてきたのか判らなくなります。
 女帝時代をどのように解明するのかといいますと、動かせない事実があります。

いつ完成したか判りませんが、延喜式内社とよばれる神社が、現在においても、全国に存在しています。朝廷のお墨付きの神社で由緒正しいと思われている式内社の祭神は、アマテラスを祀っていない事実です。それだけではありません。古事記に書かれている神話は、歴史ではないとしますと、日本の古代史は全く、判らないことになりますが,神話が実際あったことを記述していると考えますと、天皇は、何処におられたかは、解明することができます。初代天皇である神武天皇は、伯耆国におられたはずですが、日本書紀では、その証拠となるものは、すべて消されています。延喜式に書かれている式内社は、3000を越えますが、この神社のあるところは、天皇の反対勢力の拠点となっていました。(式内社の分布http://homepage1.nifty.com/o-mino/page257.html ) 全国隈なくあるということは、全国が、天皇の反対勢力によって制覇されたという事です。それは、いつかといいますと、女帝天皇の時代が終わったときだと思っています。そのようなことは、どうして出来たのかといいますと、中国人は、天皇制は壊すことなく、傀儡政権は完成したからだと考えます。傀儡政権の中心をなすものは、女帝天皇の時代である。(馬鹿なそんな歴史は読んだことはない。イラク戦争をみれば判ると思います。あの戦争では、アメリカの軍隊が2000人もいなくても勝つことが出来ました。しかし、イギリスも日本も参戦しました。日本は特にお金と後方支援で参戦しました。このように考えますと、軍隊の人員は膨大なものです。イラクを制覇した後、いろいろ名前は変わりました。自分たちで壊したイラクを立て直すのに、復興支援と称して、軍隊が駐留し援助をしてきましたが、復興支援どころか、イラクをやっつけることすら出来ません。本当は傀儡政権を作ってほしい資源を頂けばよかったのですが、アメリカの政策が間違っていたことになります。傀儡政権のいいところは、派遣した軍隊は500人もおれば良いことになります)
人No267でみました高麗・百済・新羅の派遣は、中国人ではありませんが、傀儡政権の実働部隊だと思います。彼等は絹の収集がおもな仕事でしたが、良質の銅も発見しました。これが、和同開珎の製造、貨幣制度のはじまりとなり、もう少し後になりますが、奈良の大仏の完成に結びつきます。
 日本が国らしい形をつくれたのは、女帝天皇の時代、ほぼ、100年間とみています。

このような推理を証明するために、女帝天皇を見てきましたが、女帝8名の内、第4代目の持統天皇を眺めただけでは、傀儡政権の姿は浮かび上がってきません。
 そこで、このファイルでは、持統の他の部分に光を当てようと思います。

672(天武1)年、飛鳥浄御原に即位、鸕野皇女は皇后に。
694(持統8)年、12月6日、藤原京に遷都。
701(大宝1)年『大宝律令』を完成させる
 前掲の持統に関する事柄です。持統天皇は天皇になってから、4年後の持統8に藤原京に遷都していますから、藤原京は持統天皇によって造られたのではないかもしれませんが、天武天皇と一緒に政治に関わっていたことを考えますと、持統天皇の最大の仕事であったと思われます。飛鳥には、ここが飛鳥浄御原だという遺跡があります。同じ宮という字が使われますが、藤原宮と規模の大きさは桁が違います。飛鳥は全体を歩いても知れています。藤原宮も遺跡が公開されて自由に歩けますが、藤原京となりますと、広大な広さのものです。
よく、中国の真似をして造ったと書かれています。その通りだと思いますが、どうして、急に、そのような大きなものを作る気になったかが問題です。中国を見てきて作る気になったと言えば、その通りですが、技術もお金も桁違いに必要です。
吉野という名の仙境通いをしていた持統天皇が、すべて、采配を振っていたとはどうしても思えません。
No262~266までに見てきましたように、持統天皇は吉野でなんども政治のことを語りあったとは思いますが、藤原京建設は、藤原氏を中心とする中国人によって行われたのではないかと推察します。
その理由は簡単です。藤原京そして、ついでに、平城京も車ではなく、実際に歩いてください。どれほど、大きなものであるか、肌で知ることが出来ます。飛鳥浄御原に住んでいた人が造れるシロモノではありません。これほどの初めての大事業であれば、持統天皇の時代の記録すべき最大のものであるのに、日本書紀は、詳細は書いていません。日本書紀の作者は書きたくないものは、書かなかったというのが、私の日本書紀の読み方です。
 つぎに、『大宝律令』も避けては通れないものですが,避けて通ります。

持統天皇の時代は、傀儡政権であったという推理に拘るものの一つに、古事記の完成した時代があります。天武天皇が、自分の命が危ないと思ってから、古事記の編纂をするように太安万侶に命じたと考えていますが、準備をするのに、5年は要したのではないかと想像しています。それは、日本書紀のように、残っている書物や日記類、外国の書物と古事記を参考にしたのと違って、稗田阿礼が、ヒルゼン高原の周囲にある神社を巡って、資料を収集したと思っています。その資料をもとに、天皇の歴史を書きますと、燃やされてしまいますので、理解しにくいように古事記を書き上げました。
 天皇の御世は、天武--持統--文武—元明と流れますが、古事記は元明天皇の御世である和銅5年正月28日(712年)に完成しています。これは、現在の古事記は、相当書き加え、削られたところがあると思いますが、元になる原古事記なるものは、持統-、文武の時は、作ることは出来なかったのだと思います。
逆に考えますと、元明天皇の御世は、他の女帝の時代より、天皇の意思が反映されていたのではと推察します。それゆえに、太安万侶は、大丈夫と思って完成させましたが、処分されて400年後に発見されました。

古事記の神話の部分は、実際にあった話ですという内容は、「新しい古事記の読み方」http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/cat1968143/index.html
の2004年11.16のNo1より、No149まで書いています。神話の部分だけです。
時間がありましたら、読んでください。

第2代天皇から9代天皇までは、なぜ 記事が少ないのか、どうして、古事記は推古天皇でおわっているのか。日本書紀はどうして、持統天皇のことを詳細に書いたのか?自然と理解できると思います。 


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コメント 6

柴田晴j廣

 何点か確認したいと思います。
 「中国人」というのは、どういった概念を指しているのでしょうか?
 現在の中華人民共和国を構成する人々のことでしょうか?それとも当時の唐王朝を構成する人々のことでしょうか?
 つぎに、傀儡と冊封体制との関係については、どのように考えているのでしょうか?
 さらに、韓半島の新羅も傀儡だったのでしょうか?
by 柴田晴j廣 (2006-07-10 12:12) 

vetty

中国人---正確に表現しますと、中国人は存在しないことになります。中国大陸からやって来たというぐらいの意味です。私が本で読んでいる日本史は、卑弥呼以前は、中国との交流は殆どありませんが、私が自己流に読んだ古事記によりますと、紀元前180年ころから、大陸から大勢の人がやってきました。流行の言葉を使いますと、渡来人になります。彼等は船でやってきましたから、大陸へも出かけました。絹を持って。その絹を求めて中国大陸から、大勢やってきました。後漢の頃ですから、漢人とでもいうでしょうか? 唐の時代はなに人でしょうか? 遣隋使を派遣したときと、遣唐使を派遣したときの相手は、人種は異なりますが、遣隋使のときは、その当時の日本人に近かった? のではないかと想像しています。中国史の勉強が必要です。
冊封体制----意味がわかのません。
韓半島の新羅も傀儡----韓半島の歴史が皆目判っていません。感触としては、新羅の人と日本人(倭人)は、雲南省のほうから来た人ではないかと思っています。(根拠なし) であるのに、新羅より、百済の人の方が日本と仲が良かったように思っています(白村江に応援に行っています---だまされた?)。両方とも、海南島のほうからやってきたのでは? まだまだ、これから知らなければならない部分です。 ありがとうございました。
by vetty (2006-07-13 18:13) 

柴田晴廣

 冊封について、おそらくわかっていないだろうと思い確認させていただきました。
 冊封(さくほう)とは、中国皇帝がその周辺諸国の君主に名目的な宗属関係を設定することをいい、周辺諸国の王が朝貢することにより、中華体制に組み込むことをいいます。
 冊封体制は、東アジア外交史を語る上では基本中の基本であり、冊封体制及び中華思想を理解しなければ、いわゆる中国人の行動原理は把握できません。
 つまり、冊封知らずして、東アジア外交史を方っても砂上の楼閣。しかしながら、貴稿、はっとさせるような視点もあることから、足元を固めた後の新たな改定を望んであえて質問させていただきました。
 また、貴兄は、ユダヤ人(この言葉も中国人と同様、多義的な意味があり、定義を必要とします。)を取り上げていますが、統一以前の新羅の遺跡からは、ローマングラスや角杯、マグ(取っ手付湯呑み)など、中原より西方の影響が強い遺物が出土しています。
 さらに、古事記の記載を待つまでもなく、青銅器などの出土品から大陸から多くの人々が海をわたってきたことは明白なことです。
 砂上の楼閣から足元のしっかりした論稿になることを楽しみにしています。
by 柴田晴廣 (2006-07-14 11:54) 

vetty

冊封知らずして・・・・。そのようですね。避けて通ってはいけないことばかりです。何分、歴史が好きになったのが、5年ほど前ですから、そのうちに、挑戦したいものです。
現在の最大の知りたいことは、奈良時代は、どうして、こんなに次々、宮城をつくり、寺院が造れるほど、御金持ちだったかです。
by vetty (2006-07-14 17:55) 

柴田晴廣

 ミサイルを連続して七発も発射できる国は果たして金持ちなのか?
by 柴田晴廣 (2006-07-15 11:16) 

ハン

柴田晴廣氏は文芸社の悪人です。リンクをクリックしてみて下さい。
by ハン (2009-01-17 00:13) 

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