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No297 最古絹片も華中ルート [日本の歴史]

タイトルのフレーズは、平成10年1月1日の読売新聞と西日本新聞に掲載されたものを「文化財発掘情報3月号」に収録された記事のタイトルです。
これでは、意味がよく判りませんので、其の一部を転載します。
弥生時代の環濠遺跡としては濃くない最大規模の吉野ヶ里遺跡(佐賀県)から、1994年に出土した絹織物片が中国華中地域の絹糸の特徴と一致することが、繊維学と蚕絹史の権威である布目順郎・京都工芸繊維大名誉教授(83)の鑑定であきらかになった。また、華中地域の人骨と吉野ヶ里をはじめ北部九州の弥生人骨の特徴が一致することが、国立科学博物館や九州大学の研究者が参加した日中共同調査団で確認されており、布目名誉教授は、この二つの研究成果から、日本への渡来人による養蚕と絹織物の伝来は、定説の「華北--朝鮮半島ルート以前に」に、「華中ルート」が存在したとしている。近く、専門誌に発表する予定だ。

この記事には、中国・朝鮮半島・日本を含む地図がつけらており、矢印で、楽浪郡を経由して絹が日本にやって来たことを表しています。それに加えて、揚子江の南の華中から直接日本に絹が伝わったことを示す矢印が太く書き込まれています。
タイトルの「最古絹片も華中ルート」の意味がお解かりになられたと思います。

この記事の元になったものは、布目順郎の絹の鑑定と国立科学博物館や九州大学の研究者が参加した日中共同調査団で確認された人骨が同じであったことが重大な根拠になっています。
しかし、私がなにを言いたいかは、すでに、お解かりと思います。この地図に書かれた矢印は、逆だと思います。日本から中国へ輸出されたのです。
普通は、同じ絹が中国と日本で発見されたら、それだけの事です。この絹は、中国から運ばれてきたか、人骨が同じですから、華中の人が吉野ヶ里にいたことは事実です。そうすれば、華中からやってくるときに、絹織物を着てやって来たかもしれません。しかし、その逆のことも言えます。読売新聞と西日本新聞の人は、疑うことなく、「最古絹片も華中ルート」のタイトルをつけて、お正月の記事にしました。
 
私が逆であろうと推察する根拠は、これまでに述べてきたことが、すべてであると言えます。しかし、これでは、はっきりと断言できるものでは有りません。次に書くことも断言はできませんが、文化はすべて、中国から来ると考えるよりは、ましだと思います。

 フランス人のパリーゼ著『絹の道』では、白い繭は山東半島の一部と日本にしかないと書いています。従いまして、華中は絹の産地ではありません。それに比べて、吉野ヶ里でも、僅か、四片の絹しか出土していないのですが、その絹は、大王らしき墳墓からではなく、普通の人の墓から、出土したことが判っています。中国から輸入していた高級品であれば、一般の人は着ることはできなかったと思われます。絹は吉野ヶ里のほうが多かったと考えるべきです。数例のことから、判断するのは危険ですが、一般の人でも絹織物を着ることができたと言う考えは自然です。
吉野ヶ里のことは、以前に書きました。あまり詳しいことは手に入れることが出来ないのですが、一番の特徴は、深い環濠によって村は囲まれて、物見櫓まであります。敵からの侵入を恐れていたことが判ります。
何故 襲われたのか 簡単です。取られるものが村にあったからです。それは何か? 鉄や銅製品も出土していますが、それほど多くありません。それでは食料かといいますと、食糧倉庫は、環濠集落の外に作られていることが判りました。膨大な甕棺が現在も発掘中です。それだけ多くの人が住んでいた証拠になります。
 
 少し、書いただけですが、いろいろのことを総合しますと、「最古絹片も華中ルート」は、日本から中国へのルートであったことが判ります。 


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