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No299 倭文神社はなにを教えてくれるか –2 [日本の歴史]

国譲りのときに登場した神さんをご自分で書き出してください。

倉吉の近くに、次の神社があります。
倭文神社  東伯郡舎人村宮内 
 祭神 建葉槌命、下照姫命、事代主命、建御名方神、
少彦名命、天稚彦命、味耜高彦根神

倭文神社  東伯郡北谷村志津
 祭神 経津主神、武葉槌命、下照姫神、伊弉諾命
    伊弉冊神、誉田別命、国狭槌尊

波波伎神社 東伯郡日下村(倉吉市) 福庭
 祭神 事代主神、下照姫神、天稚彦神、建御名方神、阿遅志貴高日子根神
    狭依比売命、多紀理比売命、多岐都比売命

国譲りに登場する神さんが揃っていると言うことは、古事記を書くときに、この辺りで国譲りの談判が行われ、天孫降臨が行われたようにストーリーを作成したことになります。どこの国かといいますと、倉吉辺りだと言うことになります。正確には、「高千穂」です。
鳥取県の地図を広げて、東伯郡舎人村宮内、東伯郡北谷村志津、東伯郡日下村福庭を見つけてください。倉吉は直ぐに見つかるはずです。次に 「高千穂」を見つけてください。
 舎人である稗田阿礼が訪問したときにあった神社は現在でも存続していることになります。

さて、愈々、上記の資料の検討に入ります。二つの倭文神社の祭神を比べてください。
① 建御名方神は、日本書紀に出てきません。古事記が出来たときは、両方の神社にあったはずですが、藤原氏の勢力が強くなったときには、北谷村志津の建御名方神は外されてしまいました。
② 倭文神社は、両社とも式内社ですから、最終的には藤原氏の勢力圏になったと思われますが、味耜高彦根神が残っている舎人村宮内は、天皇の勢力がのこっていたとおもわれます。
③ 下照姫命と下照姫神と二つの違った記述があります。志津の方は、日本書紀に書かれている表記と同じです。
④ 波波伎神社に残っている由緒と古事記に書かれているものは、殆ど同じ内容です。ここは、天皇勢力の強かったところではないでしょうか?  
⑤ 波波伎神社の祭神は、いっぱい書かれていますが、主要な神は事代主神です。国譲りに際しては、事代主神の存在は強かったのではないでしょうか?  
⑥ 全体を見ていえることは、国譲りは、東郷池と絹が重要であったことを現しています。
⑦ 味耜高彦根神は日本書紀、阿遅志貴高日子根神は古事記の表記です。

東郷池の近くの羽合町の長瀬高浜遺跡から、膨大なハニワが出土しました。どうして、これほど沢山のハニワがでたのか、まだ全容はよく判っていません。ここのハニワは、写真からは、お墓の周りに埋まっていたのではなく、ハニワの製造所で、失敗作の捨て場であったような感じを受けます。弥生時代の前期には集落がつくられ、弥生時代中期には墓域ができたと推察されています。
 このように大量のハニワを必要としたと言うことは、次々お墓をつくる必要が生じていたことになります。戦争が多かったのでしょう。このように考えます、鳥取県はお墓の発掘数がもっとも多いとされていますのが、説明がつくように思われます。鳥取県で発掘された古墳を全部見直す必要があります。

鳥取県にある二つの倭文神社に光をあてるだけで、いろいろ判るような気がしませんか? 

次回は、ついでのことに、東郷池の周辺の古墳をみておきます。


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コメント 1

福井 良治

2行目の、倉敷・・は、倉吉の誤りでしょう。
by 福井 良治 (2007-01-21 20:08) 

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