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歴史番外編 No26 太子道を歩く [歴史番外編]

H19.03.18  目覚めますと、ご近所の屋根が真っ白です。毎月、奈良を案内していただく日です。6時起床。家を出た時は、すこし雪がちらついていましたが、集合場所の王寺駅に着いたときは、太陽が射していました。
この日のコースは、奈良の太子道です。遠方の方は興味をお持ちでないと思いますが、一日、歩きながら、私がなにを考えたかを書いてみようと思います。できれば一泊されれば、同じコースを歩くことは可能ですので歩いて、歴史とはどのようなものかを感じていただければと思います。歴史番外編、しばらくは、太子道のことを書こうと思います。
 まず、どこを歩いたのかを知って頂くために、立ち寄った所を記します。
昔、国鉄と呼ばれたころに、名古屋から大阪の湊町駅(現在難波駅)までを関西本線と呼んでいました。現在は、JR東海とJR西日本の二つの会社に跨って営業しています。加茂~JR難波間には1988年3月から大和路線(やまとじせん)という愛称がつけられて、この愛称が定着しつつあります。大和路線は、加茂~JR難波間ですが、大阪から奈良へ行くときは、JR大阪駅から、加茂行きの大和路快速が出ています。
 この大和路快速に大阪駅から乗車しまして、20分ほどでしょうか? 「王寺」駅に着きます。次の駅は、すぐ近くにある、どなたでも知っておられます「法隆寺」です。法隆寺におられた聖徳太子が、飛鳥まで行かれるときに通られたであろう道を太子道と呼んでいますが、今回歩きしたのは、別の太子道です。聖徳太子の死後、その亡骸を叡福寺(大阪府太子町)の御廟まで運んだとされる「太子葬送の道」も太子道と言います。大阪まで歩いたのではなく、途中までです。
さて、コースです。「王寺」駅—舟戸神社—達磨寺—片岡神社—片岡王寺跡--放光寺—孝霊天皇陵—親殿神社—火幡神社—畠田古墳—永福寺—尼寺廃寺跡--尼寺廃寺南遺跡—平野古墳—武烈天皇陵—志津美神社--JR和歌山線「志津美」駅。 ほぼ、20000歩の道のりでした。
                               
全く、話は変わりますが、3月16日に読売新聞で、「古代出雲 独自信仰でリード」とのタイトルで、この度、島根県でオープンした、古代出雲歴史博物館の紹介記事が掲載されました。普通に読まれたら、すごいな、自分も行ってみようと思われた方は、大勢おられたと思います。
 私は現在、銅鐸のことを知りたくて、銅鐸の資料を集めながら、いろいろ考えていますが、ここに書かれているようなことには、きつとならないのではないかと思っています。ここに書かれていることは、新聞記者がプロに取材したことから書いておられますので、正しいのかも知れませんが、私は疑問に感じています。
 では、お前はどのように思うのかと聞かれると返事が出来ないのですが、それだけ、出雲はなにも分かっていないところの印象を持っています。
 しかし、先日、太子道を歩きながら、次々と現れる遺跡や神社、寺を巡っていますと、読売新聞に書いておられる日本史は、太子道が教えてくれる歴史とかけ離れているように思います。歴史は、連続しているものです。これが、「No26 太子道を歩く」を書く気になった理由ですが、どれだけ私の気持ちをお伝えできるか自信ありません。
読売新聞をお読みの方は、すでに、読まれたと思いますが、もう一度、目を通しておいて、私の紹介する太子道を眺めて頂ければと思います。 


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