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歴史番外編 No27 舟戸神社(太子道を歩く) [歴史番外編]

舟戸神社(西安寺跡)
祭神は久那戸大神・天児屋根命。由緒不明。 現在の社殿は昭和63年の再建。
境内周辺から白鳳・天平~鎌倉期へのかけての瓦が出土。拝殿東側の林のなかに、明治の初めまで径2尺ほどの円形孔のある塔心礎と見られる石があったと伝え、社殿背後あたりに礎石の破砕片も見られ食堂跡と考えられている。斑鳩から河内飛鳥へのいわゆる太子道にあたり、聖徳太子建立46寺院の一つで西向き法隆寺式伽藍配置の西安寺があったと思われるが、発掘調査が行われていないので、詳細は不明。なお、東側の通称舟戸山で平成5年に弥生土器が見つかり、発掘調査の結果、径11~12mの大型の竪穴式住居跡を検出。部分調査なので全容は不明ながら、高地性集落があったと見られている。

以下、私のたわごと
① 舟戸神社は、古い記録に「舟度神社」と書かれたものもありますから、「舟渡神社」であったかも知れません。徳島県一宮の近くに舟戸神社の名前の祠があります。また、京都の加佐郡大江町蓼原261にもあります。陸耳御笠(くがみみのみかさ)苦戦に陥った日子坐王を助けた舟戸神をまつるとあります。舟戸という地名は、いっぱいありますが、舟戸神社は、他に富山県砺波市にもありますが、少ないです。
「舟戸」は、和歌山県の紀ノ川にもありますが、「船戸」となっています。ここは、渡し場で、戸(家)がいっぱいあったからと説明したものがありました。私は「船戸」は、川が狭くなった部分に付けられたところではと考えています。王寺町の舟戸は、川が大きくカーブはしていますが、狭くはなっていません。
② 西安寺は、出土の瓦から、7世紀からあったと思われますし、16世紀初めまでは存続していたことが史料からわかっていますから、舟戸神社はその後に、作られた可能性が大きいですが、祭神の久那戸大神は、イザナギが、イザナミが居た黄泉の国から逃げて帰り、禊をするために、阿波岐原にやってきて投げた杖から生まれた神が、衝立船戸神と書かれています。日本書紀では、岐神と書かれていて、こちらの場合は、イザナミが出した追手を追い払うために投げつけたものの一つとして岐神が書かれています。翻訳者は岐神にフナトノカミとふりがなを付け、(塞えの神)としています。塞えの神は、境界線に祀られる神です。このように、日本書紀の編集者も、翻訳者も理解できない衝立船戸神を、西安寺が潰れたからといって、いくらでも隣に建てる敷地があったのに、祀ったというのも不自然です。舟戸神社は、西安寺が建てられる前から、あったのではないでしょうか?
③ もう一人の祭神の天児屋根命(記紀とも天児屋命と書かれています)も古い神です。天岩戸に天照大神が籠もられた時、その前で祝詞を読み、天孫降臨の際に邇邇芸命に付き従って高千穂の峰に降臨しました神です。古事記では、ただ、天児屋命の名前が出てきますが、日本書紀では、藤原氏(中臣氏)の祖先神であると書かれています。このことが、根拠になっているのでしょうか? 天児屋命は藤原氏の先祖を祀る春日神社の祭神の一人として名を連ねています。
  舟戸神社と西安寺は、何時のころからか分かりませんが、藤原氏の支配下に置かれるようになったのではないでしょうか?
④  王寺駅北側を少し西に行きますと、「久度神社」があります。この神社には行っていませんが、祭神に、品陀和氣命 が祀られ、配祀に、 天兒屋命、底筒男命、久度神が祀られ、延喜式内社の久度神社に当てられています。
(参考WEBhttp://kamnavi.jp/as/ikoma/kudo.htm)この辺りは、奈良の川が、川合ですべて集まってくるところです。大和川が大きく曲がっているところですから、岩盤は固く、水害も合わなかったところだと思います。この神は、後に平安時代に、京都の平野神社に移されています。まだまだ、関係を調べる必要のある神さんです。
「近年の亡失心礎(塔心礎石) ・ 流出心礎」

http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/sinso_sositu.htm
少しスクロールしますと、大和西安寺があります。

「王寺町歴史資料室」 舟戸・西岡遺跡
http://www.town.oji.nara.jp/history/index.html


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