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歴史番外編 No28 達磨寺 [歴史番外編]

臨済宗南禅寺派。本尊・達磨坐像。『日本書紀』推古天皇二十一年(613)十二月の条に
片岡尸解仙(しかいせん)説話により、聖徳太子が達磨大師に出会って、助けたが飢人は亡くなり、埋葬した。その場所が達磨寺3号墳であるという伝承が生れ、古墳の上に土塔が造られるなどした。13世紀初め、勝月房慶政によって達磨像や聖徳太子像を安置して寺院として達磨寺の開基となったという。
 禅宗は南都旧仏教・特に大和一国支配の興福寺から敵視され、嘉元三年(1305)、焼き討ちに遭い荒廃する。室町幕府は寺院を保護し、足利義満が復興させたが、永享元年(1429)、興福寺・東大寺僧に再び破壊された。翌年足利義教の命で現本尊達磨坐像が造られ再興した。しかし、再び松永久秀の兵火に罹って荒廃したとされる。
慶長十年(1605)豊臣秀吉が復興に尽力し、江戸時代には金地院崇伝の助力を得て、現方丈は寛文七年(1667)の建築。本堂・拝堂は明治十一年に立替えられたが、破損が激しくて平成十四年から建て替え工事が行われ完成。
 本堂内陣の中尊は千手観音像、像高76.8cm寄木造り。室町時代。裏庭にある達磨寺中興記石幢は文安5年〔1448〕頃の作か?
 
1. 達磨坐像(重文) 永享二年(1430)本堂に安置されていますが、ガラス越しのため、拝顔することは出ません。申し出ますと、拝観は可能かも。
寄木造り。着色彫眼。坐像高さ88cm。日本三達磨の一という。(京・円福寺、松島・瑞巌寺)
<像底銘> 「永享二秊庚戌四月奉 征夷大将軍源相公鈎命雕造至 十月終功 左辺眉眼鼻    口并両手旧像不壊者也 仙工椿井法眼集慶綵粧僧周文 勧縁遠孫比丘祖能謹志」 2.聖徳太子坐像(重文)  太子の坐像は明日香村の橘寺(最古?)にあります。又、法隆寺聖霊院の坐像は国宝(1121年)。当寺の坐像は、1277年の作で、それより150年ほど新しいものです。寄木造り。像高93.2cm。 <膝裏銘> 「大仏師法印院恵 作者法橋院道 建治三年十一月日」 3達磨寺中興記石幢(重文) 達磨寺の中興記を文安五年(1448)に八角形の石碑の各面に彫り、建てた。安山岩製、高さ181cm。風化激しく読みづらくなっている。 永享七年(1435)南禅寺の惟肖和和尚が、当時の住持南峰和尚に乞われて撰述したことが記されています。http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page584.html 片岡山飢人伝説 http://www.town.oji.nara.jp/legend/kijin.htm http://www.town.oji.nara.jp/legend/kijin.htm 達磨寺石塔埋納遺構(王寺町教育委員会) これは現地説明会の内容です。 http://www.kashikoken.jp/from-site/2002/daruma.html


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