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歴史番外編 No35 尼寺廃寺跡 [歴史番外編]

以前から古瓦が出、古い土壇が残っていて注目されていたが、平成三年度から13次に及ぶ発掘調査が行われて、7世紀半ばごろの建立と見られる。
東面する法隆寺式伽藍配置(http://hikaritokage.hp.infoseek.co.jp/toba2004/ninji91.jpg )
を持つ寺院跡が判明。平成14年に史跡に指定された。塔、食堂、回廊の跡はわかったが、講堂・中門・東門等の跡はまだ明らかでない。目下この一画の民家・耕地の立ち退きが終わり、香芝市が史跡整備を進めている。
(1) 塔跡 塔の基壇(現状、南北11.2m、東西9.6m、高さ1.4m)が唯一残るが周囲が削られていて本来はもう一回り大きかったと見られる。
発掘調査の結果、基壇から13個の礎石(心礎1、四天柱礎4、側柱礎8)を検出。側柱礎は12あったが、4欠。心礎は1.2m低くあり、一辺3.8mのほぼ正方形。中心に心柱の柱座を穿ち、その四隅に添柱穴4個を彫り込む。柱座の底には心柱の腐食防止用に約5cmの厚さで炭が敷き詰められ、その炭の上から金の耳環12・水晶玉4・ガラス玉3・刀子1の舎利荘厳具が出土。
塔跡から耳環が出たのは、飛鳥寺・四天王寺・定林寺・中宮寺に次ぎ、5例目。
柱座から推定される心柱は直径約76cmの丸柱、添柱は直径24~26cmくらいの大きさ。
  塔心礎の大きさでは日本最大級のもので、この形は法隆寺若草伽藍のそれと同形式。
  礎石から推定される塔の規模は初層一辺の長さ7.08cm(3間×3間)
(2) 食堂跡 基壇は削平されて耕地になっていたので明らかでないが、塔の中軸線に狭い発掘調査をした結果、雨落ちバラスの検出から食堂跡が推定され、南北16.23m、東西13.57
m、の建物とわかり、当初四天王寺式の南向きかと思われていたのが、東向きと判明。また、出土瓦から見て680~690ごろの造営と見られる。
なお、西側に焼け落ちた瓦が堆積しており、創建時の瓦で焼失しているので、焼失は平安前期(9~10世紀)か。
(3) 回廊跡 回廊は塔と食堂の周囲を取囲み講堂(未調査)と直接つながっていないようす。東西44.84m、南北77.39m、幅3.54mと推定される。出土した瓦が食堂のものより新しいので、食堂完成後の建設らしい。

以上、出土瓦の様式や使用された建築用尺度から見て、まず塔が建設され(650~660)、次に、食堂、少し遅れて回廊が整備されたらしい。平安時代の瓦が出ていないので、焼失後の再建はなかったらしいと考えられる。創建者については、聖徳太子の一族か、敏達天皇系の一族か。二説あるが、後者の説の方が有力視されている。

大和尼寺廃寺(尼寺北廃寺) 参考ホームページ
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/ato_ninjihaiji.htm


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