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歴史番外編 No37 太子道 その他 [歴史番外編]

(1) 尼寺廃寺南遺跡--尼寺廃寺北遺跡の南200mにある薬師堂の側に、古寺の礎石がいくつか残存し、その西の般若院の境内から古瓦が多く出土していて、部分の発掘調査で堂の基壇跡も検出されたので、北遺跡の古寺院とは別に、この付近にも古寺の伽藍があったと推定されている。現在まで部分調査は行われたが、北遺跡ほどのの本格調査はできていないので、不明である。地名の「尼寺」から北が僧寺で南が尼寺とみる考えもある。

(2) 武烈天皇陵(傍丘磐坏丘北陵)—応神王朝最後の天皇で『日本書紀』に悪行の暴君として記されている。泊瀬列城宮に即位して治世8年で没したという。幕末まで平野3号墳が充てられていたが、明治22年にこの地に治定。

(3) 志都美神社—式内社。祭神=天児屋根命・誉田別命・中筒男命。弘仁四年(813)創祀
と伝えるも沿革不明。古くは鹿葦津姫命を祀ったという。この地に清水の湧く井戸が多いので清水社と呼ばれたという。社殿背後に命じ12年のコレラ大流行の際、氏子の中から一人の患者も出なかった神徳を感謝する碑が残る。

(4) 顕宗天皇陵(傍丘磐坏丘南陵)—雄略天皇に射殺された磐坂市辺押磐皇子の二人の王子の兄・億計王(おけ)が弟の弘計王(をけ)に皇位を譲り、弟が顕宗天皇となった。在位2年余りで没。そのあと、兄の億計が即位して仁賢天皇となり、武烈天皇は、その子。なお、位を譲り合っている約10ヶ月は余飯豊青皇女が政治を見たという。幕末まで平野塚穴山古墳があてられていた。

参考ホームページ
http://kashiba-city.net/wiki/wiki.cgi/sekki?page=(2)%B8%B2%BD%A1%A1%A6%C9%F0%CE%F5%CE%BE%CE%CD%A4%CE%A4%B3%A4%C8


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