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歴史番外編 No38 太子道から感じたこと [歴史番外編]

【歴史番外編 No26 太子道を歩く】 から、No37まで、退屈なのにお付き合いありがとうございました。退屈でしょうから、最後はデーターだけを記し、省略しました。一日かけて、ゆっくり歩きましたが、出発の王寺駅から志都美駅までは、僅か6kmぐらいだと思います。
この間に、大きな遺跡が三つありました。御陵は三つです。古墳は、他の地域に比較して少ないようです。ということは、あまり古い時代には、住んでいなかったのでしょうか?
面白いと思ったのは、伊勢参りが盛んになったとき、河内国分から明神山を越えて畠田へ出る道があり、その道が「送迎道ひるめみち」と呼ばれ、往来が激しかったことです。今では通行量は少ないですが、その街道筋に、永福寺が建てられており、行基の開基と伝えられていることです。(行基は天智天皇7年(668年) - 天平21年2月2日(749年2月27日))は日本の奈良時代の僧侶)。
 
 皆さんに一緒に考えて頂こうと思ったことがあります。達磨寺ができたのは、13世紀初めとなっていますが、達磨寺の境内にある3号古墳は、聖徳太子が13世紀初め、達磨大師に出会って、助けたが飢人は亡くなり、埋葬したものであるという伝承があります。
 聖徳太子は、敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日)(同29年2月5日説あり-『日本書紀』))は、飛鳥時代に活躍した政治家とされています。この間は48年間です。聖徳太子が創建したと伝えられる寺院は、46院とされています(http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/syotokutaisi46.htm )。この46院と呼ばれるもののほかに、一覧表では、達磨寺があげられていますが、この中には、達磨寺の開基は聖徳太子であるとされています。
達磨寺の向かいにある放光寺も聖徳太子、または、百済王から帰化した大原博士の建立との説もあります。
 この辺りの事実関係を私が述べることはできませんが、達磨寺のことを調べているうちに、聖徳太子は50近くの寺院を建てたということを知りました。誰だれの開基というのは、どのようなことをいうのでしょうか? 建築に本当に携わったのであれば、48年間で50寺院というのは、無理だと思います。仮に、寺院は完成したとしましても、その寺を守っていく僧侶はいたのでしょうか?  僧侶はいたとしても、信者というか、一般住民が住んでいたのでしょうか?
聖徳太子より少し時代は下りますが、行基という人も、随分、寺をつくったり、治水の事業を行ったりしています。三重塔で有名な薬師寺は天武天皇により発願(680)、持統天皇によって本尊開眼(697)、更に文武天皇の御代に至り、その後、平城遷都(710)に伴い現在地に移されました。(718)
一段と時代が下りますと、聖武天皇が741年に国状不安を鎮撫するために各国に国分寺と国分尼寺の建立を命じています。
 達磨寺を出発して、それほど知っている訳ではありませんが、思いつくままに寺院あげて、調べてみますと、奈良時代に集中しているように思われます。
 気に入らないのは、古墳時代がありました。その古墳からは、どうしてこんなに、幼稚なつくりだろうと思える埴輪が出土しています。この古墳は、ほとんど、5~7世紀のものであると書かれています。この古墳自体は、大土木建造物ですが、その中から出土したものと、寺院に残されている仏像などとは、連続していないと思えてなりません。
 仏教の経典なしの仏教だったのでしょうか? 経典もあって、初めて仏教でしょう。また、仏像があって、それを安置する建物が寺院です。どんどん、寺院だけが造られたのではないはずです。あれだけの素晴らしい仏像を造ることのできる人が造った古墳にしては、出土するものが、お粗末です。古墳の時代が正しいのであれば、奈良時代に造られたものは、殆ど、渡来の人が造ったと考えませんと不自然です。奈良時代に造られたものは、すべて、日本人が造ったとなりますと、古墳時代は、100年ほど遡らさないと歴史は連続しません。

 尼寺廃寺は、だれが建てたのかも分っていません。片岡王寺の詳細もこれからの研究によるでしょう。なにが不思議かと言いますと、碌に貨幣すらない時代に、どうして、このように大きな建造物を建てることができたのか?
 このような疑問を解決するためにも、どの寺や神社が、いつ、どれぐらいの期間とお金?
を使ってつくられたのか、調べる必要があります。

なかなかうまく書くことができません。思いつくままに、もう少し書きます。
弥生時代の日本人が、どうして、奈良時代になって急激に、気が狂ったように寺院を建て出したのか? その理由をなぜ、歴史家は、一般の人に、教えていないのでしょうか?
私が、主張しています、「日本は、中国人によって、運営される国になり、現在でもその状態が続いています」を使いますと、説明がつきますが、それでは、今度は、中国からもたらされた仏教がなぜ、日本で花開き、中国では成長しなかったのかの説明がつかないことになります。

私が歩いた太子道は、歴史がいっぱい、埋まっていました。歴史の謎を抱えながら。


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