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歴史番外編No41 脱北者漂着 [歴史番外編]

平成19年6月2日午前7時すぎ、青森県深浦町の深浦港付近に、北朝鮮からの脱北者と見られる4人が、小舟に乗って漂着した。舟には小さなエンジンを積んでいた云うものの、日本海を乗り切れるようなものではなかったようにコメントされています。
 4人は5月27日夜、北朝鮮の清津(チョンジン)を出発したらしいです。青森までの距離は850km。5日半の航海になります。対馬海流に乗るまでは、手で漕いだにせよ、エンジンを使ったにせよ、頑張らないと、リマン海流が、大陸の近くを北から南に向かって流れていますから、南に流されてしまいます。清津からどれほどのところで、対馬海流に乗れるのか知りたいところです。
 一年のうちで、霞むことは多いが、一番日本海が穏やかな時期だと新聞は書いています。

なにを言いたいのかと言いますと、私の日本史に対する見方の基本が、紀元前からユダヤ人や中国人・朝鮮人が大陸と日本の間を往復していたということです。日本海を渡った話では、遣隋使や遣唐使は有名です。遣隋使は600年(推古8)~618年(推古26)の18年間に5回以上派遣されています。遣唐使などでは、往復に相当難儀をした事が、判っています。これは船が大きかったからではないでしょうか?  
 今回のように、舟が小さいですと、わずか、6日も要しないで到着しています。今回の航海も楽なものではなかったらしいですが、舟が木ではなく、皮でできた舟であれば、もっと、安心しながら航海出来たのではないかと思います。
 その理由は、古事記に「大國主神が 出雲の御大(ミホ)の御前(ミサキ)に坐す時、波の穗自(ヨリ)天(テン)の羅摩船(カカミフネ)に乘り而(テ)、鵝(ガ)の皮を内剥(ウチハギ)に剥いで、衣服に爲(ナ)して、歸り來る神が有る。ここに其の名を問え雖も答えず。且つ所從う所の諸神に問え雖も、皆、不知と白(モウ)す」という記述があります。やってきた人物は、少名毘古那神であり、神産巣日神(カミムスビヒノカミ)の御子だとあります。神産巣日神は、別天つ神五柱の中の一人です。 

 神産巣日神の子供である少名毘古那神が、海南島に行っており、絹の製造方法や稲作などを、持ち帰ったとしますと、いろいろのことにおいて、説明がつきます。この島は、雲南省の苗族の人たちが、朝鮮や台湾に行くときの拠点になっていたのではないかと思われます。戦前の台湾には、少名毘古那神を祭る神社があったことが判っています。朝鮮半島の南の先端には、ここから移動したと思われる記録が見られます。風俗、習慣が同じと言われています。当時、国の名前は新羅と呼ばれていました。
 雲南省の苗族の人たちは、カヌーの大きいような皮布の舟で、海より危険な河をなん千キロと下って海に出ています。この舟は、転覆しても沈まないと思います。
 海南島や中国の福建省あたりを出発しますと、出雲や丹後に着くのであれば、簡単に日本に来ることができたと思われます。
 朝鮮と日本の間の最も狭いところを通って、北九州に着こうとしますと、相当、強力な人海戦術か、風の力をからないと無理なことは、随分以前に、朝日新聞社が、実験船をだして失敗した例があります。
古代史を考えるときに、目で見える証拠がないと、学問でないような風潮があるように素人には思えてなりません。奈良時代まで待たなくても、また、北朝鮮の人が、自殺用の毒薬を持って渡航したようなことをしなくても、夢をもって絹や水銀をもとめて、古代の人は日本にやってきたと考えてもいいと思います。
少名毘古那神のお話は、神話ではありません。

 脱北者漂着によって、紀元前でも、充分、貿易が可能であることが判りました。 


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