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歴史番外編No43 河内飛鳥を巡る-観音塚古墳 [歴史番外編]

H19.05.27 に快晴に恵まれ、大阪の飛鳥町一帯を歩いてきました。このように書きますと、自分で歩いてきたように聞こえますが、「日本大好き」とタイトルを改めて書き始めNo1 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page1102.html
よりNo3で紹介しました先生に連れて行って貰いました。天気はいいですが、初夏とは思えない気持ちのいい一日でした。
 いつもの様に、先生は、4枚からなるレジュメを準備して頂き、それぞれの場所で、レジュメに書かれている以上のことをお話しして頂きました。私には、歩いた距離が多すぎて、最後の方は、夢遊病者のように歩いていたように思います。

 歴史番外編として、訪れたところの資料(レジュメより)を記し、私がなにを考えながら、歩いてきたかを書いてみようと思います。
 書いてあることが、間違っているとか、正しいとかの問題ではなく、次第に日本が、好きになっていく様をくみ取っていただければと思います。そして、できれば、同じコースを歩いて頂き、私と違った日本を発見して頂ければと思います。

観音塚古墳 国史跡
寺山(294m)・鉢伏山(211m)の南・西斜面一帯に造られた飛鳥千塚古墳群の支群の中の円墳。周辺はブドウ畑に蔽われていて、多くの古墳が破壊されて消滅したが、辛うじて保存されている。
塚は径12m、高さ3m。横穴式石室の奥に横口式石棺を造りつけにした構造。前室となる石室は、大小の石英安山岩の切石を巧妙に組合わせて作り、天井の前後の部分は斜めの切り石をわたす。
 石室は長さ2.47m・幅1.44m・高さ1.66m。奥の横口式石棺は内法長さ1.91m・幅0.93m・高さ0.78m。蓋と身石との二つの石で作られ、蓋石の裏側は屋根裏状の凹み部分が
設けてある。
 羨道部は長さ2.27m・幅1.47mで、左右の石各2が残り天井石はない。石室・石槨の入口に扉石をはめたと見られる切込みがある。7世紀全般の築造。

上の写真は、私が撮影したものです。アップしたために、全体の雰囲気が掴めません。羽曳野市のホームページの写真は、次のものです。
http://www.city.habikino.osaka.jp/info/115/bunkazai/iseki/shumatuki/t_s_kannonduka.html
全山ぶどう畑になっています。曳野市のホームページの写真ではその様子がよく判ります。さて、階段は何段登ったでしょう。途中で二度一服しましたから、100段?は登ったと思います。山でいいますと、八合目と言った位置にありました。

私の写真を見てください。石をL字型に切り、組み合わせています。しかも、石と石の隙間が殆ど見ることができません。又、石の表面が完成したときは、すべすべであったのではと思えるほど、平面に加工されています。組み合わせは、あたかもインカの石組を連想させます。曳野市の右側の写真に、石槨の天井が映っていますが、上の隅の部分が、斜めに作られています。所謂、屋根型天井に造られています。また、入口には、きれいに彫られた部分がありますが、この部分には、戸が付けられていたと思われます。
 曳野市のホームページでは、この墓の近くにある千塚古墳一帯を、300mほど下にある飛鳥戸神社の祭神が、百済のコン(王へんに昆)伎王であることから、渡来系氏族であろとしています。
 せめて、観音塚古墳は朝鮮人、奉献塔山古墳は中国人の可能性があるぐらいのことは、言えないのでしょうか? 若し、そうだとしますと、中国人と朝鮮人は仲良く暮らしていたか、すみ分けていたとかいろいろ考えるこしができて楽しいのですが・・・。
 八尾市にも千塚という地名が残っていて沢山の古墳があります。お互いに、共通するところがあるのか、ないのか、考古学者の立場からお話しをお聞きしたいところです。

つくりの精緻さから考えますと、古墳時代末期というのは、妥当なように思いました。



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