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歴史番外編No44 河内飛鳥を巡る-飛鳥戸神社 [歴史番外編]

初めに、レジュメに書かれてある文を記します。

式内名神大社。祭神=コン(王+昆)伎王(昆支、百済の蓋鹵王の弟)。
『日本書記』雄略天皇五年461に記す。軍君(昆支コニシキ)が蓋鹵王(455~475在位)の命で渡来し、帰国後、その一族がこの地に土着して「飛鳥部造アスカベノミヤツコ」の姓を賜り、その祖神として祀ったものと思われる。周囲の地は古墳時代に「飛鳥戸」大化改新後、「飛鳥部評ゴオリ」、和銅六年713以降は「安宿郡アスカベゴオリ」と改められて明治22年まで続く。現在は羽曳野市飛鳥。
平安中期以降に祭神を素戔鳴尊にすり替えられたというが、南北朝期から戦国末期に戦火で社殿焼失して衰退した。
 明治初期に現在地に再建されたが、明治末に壷井八幡宮に合祀。昭和27年に住民の要望で旧地に復し、同35年・36年に境内の石垣なども今見るように整備された。その石材は周辺の上ん田(ウエンダ)古墳群(飛鳥千塚の一部で6世紀ごろの小円墳の群集墳)のものを利用。村中に建つ大きな石鳥居は、元禄十五年(1702)銘を刻む。

  


飛鳥戸神社は、観音塚古墳から300m程、下ったところにありました。新しく建てられた表示塔がありました。遠くに見えている狛犬のところを上がりますと、左手に小さな社があるだけです。式内名神大社ですから、元は大きな神社であったと思われますが、現在は小さな神社です。
 下の写真は、上ん田(ウエンダ)古墳群の小円墳のものを利用とあります。わざわざ古墳に使われていた石を利用されたということは、村の人の心意気が感じられます。自分たちの先祖が渡来人であったという誇りでしょうか?
 この辺り一帯にある飛鳥千塚古墳群は、渡来系の人の古墳と考えられています。
祭神はコン(王+昆)伎王であることは伝承されていましたが、【平安中期以降に祭神を素戔鳴尊にすり替えられたというが、南北朝期から戦国末期に戦火で社殿焼失して衰退した。
 明治初期に現在地に再建されたが、明治末に壷井八幡宮に合祀。昭和27年に住民の要望で旧地に復し、同35年・36年に境内の石垣なども今見るように整備された】と書かれているように、長い間、素戔鳴尊の一族の人に村は支配され、記録には定かではありませんが、何度も戦火で社殿焼失したと思われます。このように書けば、焼けたとしか伝えられませんが、焼かれたのだと思います。当然、村も焼き打ちにあったことになります。
 そして、極、最近になって、小さな社殿ではありますが、壷井八幡宮からこの地に遷されて、35年・36年に境内の石垣が完成しています。勿論、祭神もコン伎王に戻されました。
 日本人は、どこから来たかというようなタイトルの本がありますが、元々住んでいた人は、沖縄と北海道に押しやられ、現在の日本人は、殆どが、外国から渡来したと推察しています。ここのように、祭神を元に戻し、自分たちの先祖は、渡来人であると公開されているところは、珍しいと思うと同時に、素晴らしいことだと思いました。

神社から、大分降ったところに鳥居がありました。鳥居の建てられた月日を確認しませんでしたが、江戸時代のものだと思います。きっと、鳥居のあたりが、神社の入口だったのだと思います。


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