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日本大好きNo122高天原はヒルゼン高原だった—3 [日本大好き]

中蒜山の頂上まで登るつもりで登り始めましたが、すぐにダウンとなりました。なんど、休憩したか分かりませんが、五合目の日留宮のところまで、やっとこさで、たどり着きました。眼下にヒルゼン高原が見えます。東の向かいに岩倉山という山があります。山中に、天の岩戸という伝説の岩があり、近くに「臨空館」という施設があります。
 中蒜山の五合目の日留宮とここの天の岩戸を結んだ線上に、茅部神社は建てられており、一番背の高いといわれている鳥居、そして、長い桜並木がやはり、線上にあると言われています。この並木道は、中蒜山から見ることができます。
日留宮とは、長く日が留まる宮という意味でしょう。したがいまして、ヒルゼンも日留山であったと思われます。ただ、文献のどこそこに掲載されていますとは、調べていませんから、書くことができません。イザナミが水蛭子を産んでからは、蛭山に改らためられたのでしょうか?  そして、誰も読むことができない漢字の蒜山になおされたと思います。

No121において、古事記に「天の沼矛を賜ひて、言依さしたまひき。故、二柱の神、天の浮橋に立たして、」と書かれていることを紹介しました。

古事記は、ほとんど神話であり、信用おけないようなに思われていますが、全体を通じて、どのような人物がいたか、その人物が天皇家の人であるか、そうでないかの記述ばかりです。これが、幹に当たるものですが、枝葉は、太安万侶が、稗田阿礼が収集してきた資料をもとに、創作した物語です。
稗田阿礼は、もともと、ヒルゼン高原出身(稗田阿礼を祀る神社があります)ですから、
中蒜山も、岩倉山も登ったと思います。そして、ヒルゼン高原にある神社も訪れ、いろいろの話も聞いたはずです。古老からも伝説を聞いたと思われます。各神社に残されていた祭神も、すべて記録しないで記憶したはずです。
 その証拠に、ヒルゼン高原を訪れた稗田阿礼は、そのときのヒルゼン高原の様子を太安万侶に伝えて、太安万侶は、【次國稚如浮脂而。久羅下那洲多陀用幣琉之時【琉字以上十字以音】如葦牙因萌騰之物而】と表現したことになります。
 古事記では、このように実際に行かないと表現できないようなことを書いて、当時、地名もなかったところのことを書き表しています。

上に、長い桜並木のことを書きましたが、これは長いだけではなく、真っ直ぐの道です。これは、やはり参道と思われますが、稗田阿礼が五合目の日留宮の祠の前に立った時には、雲海が、岩倉山まで続いていたのだと思います。そして、その時には、すでに、長い桜並木の行きつくところで、岩倉山の麓に、茅部神社を作ったのだと思ったのでしょう。

中蒜山を降りた私は、狭いですが、長い桜並木を通って、茅部神社に行きました。そして、
伝説とはいうものの、天の岩戸まで行って、逆に、中蒜山を眺めようと思いました。ところが、こちらも、這い上がるの表現が当てはまるように、登りまして、臨空館まで行きましたが、目的地の天の岩戸は断念しました。しかし、雄大な蒜山の姿は素晴らしいものでした。 
一度、ヒルゼン高原に行ってください。そして、両方の山に登って、ヒルゼン高原にある神社のすべてに行ってください。別に行って調べなくても、私の述べていることが実感できます。

 伊邪那岐命と伊邪那美命の間には、二番目に生まれた王子が、迦具土の神です。愛宕山や愛宕神社は、この王子に由来しています。ヒルゼン高原にも愛宕山がありますから、登ってください。
 この王子を生んだ時に、伊邪那美命は産褥熱で苦しみました。これが原因で崩御されたと書かれています。そして、お墓は出雲と伯耆の国境の阿毘縁村にあります。日野郡阿毘縁村宮下に熊野神社があります。この神社の由緒にイザナミを葬った比婆山を別名御墓と称したという伝説があるということを記しています。また、この神社の由緒にもとは比婆山神社であり、さらに、イザナミを御墓山に葬ったと書かれています。現在、溝口町にある御墓原は、この
御墓山に由来するのではないでしょうか?

 出雲と備後の国境に比婆・道後国定公園があり、ここにも比婆山があり、こちらの方が有名です。歴史のプロも、こちらが正しいと思われていまして、古事記に書かれている方は間違いと思っておられるようです。ところが、比婆山は、4ヶ所もありまして、3ヶ所は嘘の地名であり、伝承であることになります。
所在地             東経     北緯
1  広島県比婆郡西城町   133-03-41  35-03-47
2  島根県八束郡八雲村  133-04-37  35-21-57
3  島根県八束郡鹿島町(佐太神社境内)  133-00-03  35-30-46
4  島根県能義郡伯太町横屋  133-14-47  35-18-41

皆さんは、どこを信用されるか分かりませんが、隠岐島へ渡来した人たちは、地名を付けるときに、あるパターンにこだわったように思われます。たとえば、
① 島根半島・高尾山と島根県能義郡伯太町横屋は南北に並びます。
②岡山県真庭郡・日留宮と島根県能義郡伯太町横屋は、東西に並びます。
 というように、ある地名は、ある地名と、関連があります。
イザナギとイザナミに関係する場所は、すべて、南北、東西に関係があります。どれ程遠く離れていても位置を正確に把握する能力を持っていた集団であったと思われます。それだけでなく、東西南北にこだわった種族だと思います。

日留宮のあったところは、地図で確かめてください。等高線の幅が広くなっています。ということは、ここだけ、平らなところであることが分かります。普通は、等高線の幅は、似たような幅になります。特に広ければ、台地になっていることになります。人為的に、造成したと考えられます。ここに、イザナギとイザナミは御所を造ったと思われます。この台地の部分を、オノコロ島と名づけました。(オノコロの意味が判かりません)
 このオノコロ島は山の中腹です。ヒルゼン高原は、山に囲まれていますから、ヒルゼン高原の下の部分に太陽が当たるのは、太陽が大分上がってからになります。オノコロ島は山の中腹より上は、早くから太陽が当たります。日が長く留まるところです。そこで、その山に日留山と名づけたのでしょう。
 古事記において、イザナギが禊をした場所を、「竺紫の日向の橘の小門の淡き原」との表現がありますが、ここは、最近まで、日光村と呼ばれていました。伯耆の国で、一番日当たりの良いところです。最近は地名を付けるときは、桜ヶ丘や松が丘、幸町などがつけられ、その地名がどのようなところにあったかは想像もできませんが、古事記に出てくるところは、想像しますと、名前がつけられた時の様子が分かります。

比婆山が広島県比婆郡西城町にある比婆山ですと、イザナミがヒルゼン高原にいたことには無理があることになります。古事記に、イザナミのお墓が、出雲と伯耆の国境の阿毘縁村にありますとかいてあるのは、間違いであることになります。それを補強するために、比婆山神社と呼ばれていた神社を熊野神社と書き換えた可能性が出てきます。
 
 古事記にある地名は、このように、あちこちにある場合が多いように思えてなりません。古事記の記述が誤りであるように思わせたのではと推察していますが、これは、まだ、調査を始めたばかりです。
 
  高天原はヒルゼン高原であると、単刀直入に、古事記に書いてあるわけではありませんが、このように見てきますと、古事記に書かれていることが、ほとんど、ヒルゼン高原と関わりがあることを見つけることができます。

比婆山のことは、http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2005/01/post_8.html
「イザナミの墓・比婆山」に書いていますので、参考にしてください。
日留宮のことは、あちこちに書いてきましたが、「天照大神、天の岩屋戸に避難 その2」
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2005/03/2_2.html にも書いています。


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日波母里

考古学的「神々の首都」考
伯耆の妻木晩田の四隅突出墳丘墓が造営されなくなってもそこに隣接する島根県安来市の塩津山墳墓群では古墳時代まで造営が続き、やがて全国一の大方墳を作るまでに集権化されています。
この地は出雲風土記でもスサノオが「安来」という名前を付けたという事で、古代出雲王朝の首都と考える人もいます。
by 日波母里 (2007-08-26 23:19) 

テラノ助

私も、蒜山=高天原と考えた事が有りますが…
知能と経済力が無くて…
by テラノ助 (2019-08-19 07:26) 

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