SSブログ

日本大好きNo123高天原はヒルゼン高原だった—4 [日本大好き]

No121において、重要な言葉は、「天の沼矛」と「天の浮橋に立たして」です。と書きました。天の沼矛は、天から持参した沼を開墾するための矛、すなわちスコップです。 天は中国の雲南の都の昆明の古代ま地名です。「滇」と書いて「テン」と読みます。古事記が書かれた時には、「滇」という字だということを太安万侶は知らなかったのではないでしょうか。
 そこで、「天」を当てはめました。滇から渡来したトップの人を、天神と書いてテンジンと読みます。普通は、天はテンと読むのですが、古事記のはじめの部分では、太安万侶は

天地初發之時。於高天原成神名。天之御中主神【訓高下天云阿麻下此】次高御産巣日神。次神産巣日神。此三柱神者。並獨神成坐而。隱身也。
次國稚如浮脂而。久羅下那洲多陀用幣琉之時【琉字以上十字以音】如葦牙因萌騰之物而。成神名。宇摩志阿斯訶備比古遲神【此神名以音】次天之常立神【訓常云登許訓立云多知】此二柱神亦獨神成坐而。隱身也。

 上件五柱神者。別天神

と書いて、【訓高下天云阿麻下此】とわざわざ、高天原の「天」は、「阿麻アマ」と読むように断わっています。高天原に関連するものは、天ノ原、天ノ岩屋戸、天ノ浮橋、天ノ真名井、天ノ香山などがありますが、アマと発音することになります。
同じように天がつくものに、天の沼矛、天ノ詔琴、天ノ波士弓などは、雲南から持ってきましたから、頭の字はテンと発音します。中国の越には、南詔国がありますから、古事記に書かれている天ノ詔琴は、南詔国から来たものでしょう。

「上件五柱神者。別天神」と書かれていますが、別天神は、天神ではありませんと断ったことになります。この五人の神は、隱身也と書かれています。
 この人たちは、ほとんどの歴史家は、日本の国を造った、最初の神だと言われています。特に、最初に書かれている「天地」は、地球がどのようにしてできたかを語ったものだと捉えておられます。
 けっして、そのようなスケールの大きい話ではありません。ヒルゼン高原に新しい国を造ろうとやってきた神さんです。彼らは、ここがあまり良くないと判断したのでしょう。もつと、違うところを探しに出かけました。それが、「隱身也」の表現です。
 かれらは、更に、新天地を求めて、鳥取市から千代川を遡って、津山盆地を訪れていました。その証拠として、鳥取県八頭郡智頭町の那岐神社に祭られています。ここは、津山盆地の北に聳える那岐山の北麓です。
 「天地初發之時」の部分を間違って読みますと、後が無茶苦茶になります。もっとも、ひどい話が、高天原が、九州の宮崎県ということになります。それも、空の上にあるという解釈になります。神話ですから、それでいいのだと言っているうちは、良いですが、ニニギの命が、高天原から高千穂に降りてきたと書かれているものですから、空から降りてきたのであれば、山の上に降りたのであろうと、同じく、宮崎県の山に、高千穂という名前を付けました。そこまでは良かったのですが、それでは、どうして岡山県に那岐山があるのか、その麓に、どうして那岐神社があるのか、どうして、那岐神社に古事記にかかれている五人の神が、祀られているのか。
高天原は九州とは限りません。滋賀県にもあります。全国いたるところに高天原がありますが、このような事実がなぜあるのかを説明できないと思います。

 ヒルゼン高原は、東西20km、南北10kmの広大な高原で、周囲が1000級の山に囲まれた、盆地で要害の土地です。これは昔の建国の必要条件ではないでしょうか? 奈良も京都も、山に囲まれています。
 ヒルゼン高原は、なだらかな高原で、平均海抜は500mです。太古は湖でしたが、周囲の山の一か所が決壊して、湖の水は旭川となって流失しました。この結果湖底は平坦で広大な沼となり、葦が茂っていたので、葦原の中ツ国です。イザナギや苗族の人は、開拓すると米がとれると予想したのでしょう。 開拓には、天の沼矛が力を発揮しました。
 予想に反して、お米はあまり取れなかったようです。他の理由もあって、アマテラスは孫のニニギ命を鳥取県の高千穂に行かせます。

現在のヒルゼン高原は、岡山県ですが、ヒルゼン高原は伯耆国と関係があるどころか、一体になっていたと考えませんと、歴史は解けないことになります。

 隠岐島に渡来した人々は、本土に渡り、その後、イザナギのもとに集まりました。そして、ヒルゼン高原で、新しい国造りを行いました。

太安万侶は、その地を「高天原」と呼びました。

「高天原はヒルゼン高原だった」は如何でしたか?
他人が考えたことは、いくらでもケチを付けることができます。なんだ、こんなことで、
「高天原はヒルゼン高原だった」の証明にはならないと思われた方は、いっぱいおられると思います。
 書きました4つだけではありません。まだまだ書くことはありますが、ここ、しばらくは、出雲のことを知るために書いています。この部分は、枝葉の部分ですので、終わりにします。「高天原はヒルゼン高原だった」かも知れんなと思われた方がありましたら、古事記をはじめから読みなおし、ヒルゼン高原に行っていただけたらと思います。


nice!(0)  コメント(2)  トラックバック(1) 

nice! 0

コメント 2

goro

この説には無理があるような気がする。
もしこの説の通りであるならば高天原には多くの神々(仮に昔の人々)が住んでいたわけだから、大きな遺跡が残されているはず。
でも蒜山にはそれほどに巨大な遺跡は発見されていない。
人が住んで、その地が認識されて、初めて物語られるのではないかと思う。

なにより、説に対する裏付けがあまりに不十分。
by goro (2012-05-28 09:34) 

NO NAME

古代史は推測が先行する場合がある。その後遺跡が発掘されて予測が証明されることになる。蒜山に大きな遺跡があるかもしれない。それがまだ見つかっていないだけかもしれない。シュリーマンのトロイの遺跡もそうである。鳥取県には以前は古代史のうえで何もない地域だと言われてきた。しかし、妻木晩田遺跡や青谷上寺地遺跡が見つかってなんにもないどころではない、古代史の上で大事な位置を占めるようになってきた。
今遺跡が見つかっていないからといって、間違いということにはならない。
by NO NAME (2012-06-04 20:58) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 1

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。