SSブログ

No21 美作国の高野神社 その2 [神社からさぐる歴史]

両神社の祭神を並べてみます。
高野本郷の神社は、祭神 高野造祖大神  主神 鵜葺草葺不合命 
二宮の神社は、祭神 彦波限建鵜葺草葺不合尊 配祀 鏡造命(中山神),大己貴命(総社神)

 いろいろの見方はできますが、
高野本郷の神社--- 鵜葺草葺不合命
二宮の神社------- 彦波限建鵜葺草葺不合尊
の祭神だけに絞って眺めます。

日本書記と古事記では、鵜葺草葺不合命の名前と全く同じ名前では出ていませんが、よく似た名前は、記載されています。
古事記では、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命、日本書紀では鸕鶿草葺不合尊

古事記では天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命の後ろに、【訓波限云那藝佐、訓葺草云加夜】の注釈があります。波限は、どこかに書いてあったのでしょうが、書いたものの読むことができないといけないので、「那藝佐」と書いていますから、「ナギサ」です。ナギサという漢字は、渚と汀があるのに、どうして使わなかったのでしょうか?

日本書記にかかれてある「瀲」はレンと読み、「なみうちぎわ」の意味です。
日本書記に書かれている鶿は、訳本では 慈の上の部分が左横に、鳥が右に書かれた漢字が書かれていますが、辞書にはありません。鶿は慈の心の部分が鳥です。
 どうして、このように拘っているかと言いますと、日本書紀に書かれている漢字は、辞書を引いてもでてこない代物です。
日本書紀の作者は、古事記を眺めながら、古事記とは別の漢字使って日本書記を書いたと思っています。どうして、日本書紀をみながら、古事記を書くことは、難しいからです。他の部分を含め、100パーセント書き改められています。ご自分でゆっくり、本当かなと疑いながら、眺めてください。

日本書紀の祭神では、「命」が「尊」に書き改められています。日本書紀は、特に位の高い人を「尊」とし、普通の人はと書くと断っていますから、「命」も使われています。
 高野神社では、
高野本郷の神社--- 鵜葺草葺不合命
二宮の神社------- 彦波限建鵜葺草葺不合尊
と、二宮の神社では、尊が使われていますから、二宮の高野神社は、藤原氏の支配下になり、祭神を彦波限建鵜葺草葺不合尊に書き直されたと考えています。

高野本郷の神社には、稗田阿礼は訪れたのではないでしょうか? そして、祭神が鵜葺草葺不合命であることを知ったのではないでしょうか? ひょっとすると、日子波限建鵜葺草葺不合命と書いてあったのかも知れません。太安万侶は、天皇家が連続して続いていることを古事記に記すために、天津日子の間に、「日高」を入れて、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命と書いたのではないでしょうか?
天津日子番能邇邇芸命----アマテラスの孫
天津日高日子穂穂手見命--- ニニギとコノハナノサクヤビメとの間の子。火遠理命又は
山幸彦と言われます。
上記のように、天津日子の漢字が使用されています。この人たちの子孫ですよということでしょう。

高野神社は、両社とも式内社であると言っておられますが、高野本郷の神社は鵜葺草葺不合命と古事記と同じ表記ですから、藤原氏の指示に従わなかったと判断しています。
 そうしますと、考えられることは、二つです。藤原氏は、天皇勢力の強い美作で、中山神社と高野神社を支配下に置こうとしましたが、高野神社は言うことを聞かないので、二宮に高野神社を新たに造り、それを式内社高野神社とした。
 もう一つ考えられることは、高野神社の氏子は、意見が合わなくて、二つの村に分かれました。その内の二宮の神社は、藤原氏の命令に従ったが、高野本郷の神社は従わなかった。
両方の神社へ行ってきました。建物は当時のものではなくて、最近のものです。二宮にある神社の方が、断然スケールが大きいです。それだけでなく、町も大きいですから、その後、二宮の集落の方が発展したことが判ります。
 式内社になったから、町が発展したのかどうか知ることはできませんが、最初に神社が建てられた時の規模がどちらが大きかったか知ることができれば、判断がもう少し正確にすることができると思います。

地名から判断しますと。高野本郷とはおかしい名前です。この集落は、以前、高野村だったと思われます。ところが、二宮はどんどん大きくなって行き、高野神社も壊れて、長い間再建されなかったのではないでしょうか? 高野の本家は私のところですよと訴えたかって、高野の本郷と村の名前を改めたのではないでしょうか? ここにJRの高野駅があります。駅にはいきませんでしたが、開通したときは、重要な村だから、駅が出来たと考えます。
 一方、二宮のほうは、二宮という駅はなく、院の庄と津山駅の間に、神社があります。この二つの集落の方が、高野より重要視されたことになります。(駅が作られた時の経緯を津山市の方で、調べて頂ければと思います) 二宮という地名は、二の宮と呼ばれるようになってから使われるようになった地名ですから、高野本郷の方が古くからあった地名と考えています。
 このようなことを調べる方法としては、もう一つ方法があります。両方の神社の玉垣や神社の修理のときに寄付をされた方の名前が書かれています。氏子の方が多いと思います。氏子の方のお名前を調べてみますと、意外なことが発見できるかもしれません。
 そんなことより、地元の方に、直接お聞きすると新しい発見があるのではと思います。

美作にある式内社のうち、湯原町社にある八つの式内社も、抵抗したのではないでしょうか? そのために、不自然にも、狭い社という集落に集められて、式内社の名前を与えられたのではと推察していますが、この件は、もう少し検討する余地があります。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。