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No277 度々洪水に見舞われた伊勢神宮内宮 [日本大好き]

斉宮の研究は進んでいまして、いろいろのことが判ってきたようです。制度が確立したのは、天武天皇の御代になってからとされています。そうなりますと、現在斎宮跡とされているところは、あまりにも、内宮から遠すぎるように思われます。制度は、天武の御代ですから、680年頃ですが、内宮が出来たのは、宮中に祀られていたアマテラスが、追い出されたのは、崇神天皇の御代ですから、西暦180年頃になります。それから、元伊勢と称せられるところで、4年ぐらい滞在しながら、巡行を繰り返しながら、伊勢に落ち着かれましたから、100年はたっているでしょう。280年の頃でしょうか?
 この時に、斉宮も神社も近くに建てたと思われます。
ということは、400年ほどたってから、斎宮は、立派なものになったと思われます。最も、その前に、外宮が丹後のほうから、豊受の神を呼び外宮に祀られました。
伊勢神宮外宮の社伝(『止由気宮儀式帳』)では、雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比沼真奈井(ひぬまのまない)にいる御饌の神、等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」と言われたので、丹波国から伊勢国の度会に遷宮させたとされている。450年ころのことです。
 この頃は、倭の五王と言われている中国人が、勢力をもっていた時代で、丹後も大きな古墳からは、漢鏡が出土していますから、中国人の圧力で、外宮が作られたのではないかと、推察はしていますが、証拠はなしです。
 少し、調べたところでは、内宮と外宮は、アマテラスの食事の世話どころか、仲が悪かったようですし、江戸時代までは、外宮の方が、力が強かったようです。この辺りのことを調べるとしますと、新しい課題となります。
 
 現在の外宮である豊受皇大神宮の所は、海抜4mですから、海岸の近くに建てられたと思われます。一方、斎宮跡は13m、勝見 10m、明星 10m、新茶屋 10m、明野9m、新出 8m あげました地名は、道路に沿ってある地名を見ました。海抜が殆ど一緒ということは、この道は、昔から使われていた道だと思います。
 地図をご覧下さい、。この道路の名前は判りませんが、この道だけ曲がっています。その田はまっすぐですから、古いことが判ります。この道は、明野にきますと、集落が途切れています。きっと、この辺りは、洪水があったと思われます。JR宮川駅のところに、離宮院跡があります。ということで、現在の内宮、外宮に行くときは、この道を通った可能性が大きいです。宮川橋を渡りますと、外宮です。
離宮院は、斉王が伊勢神宮に、年3回訪れるときに、宿泊したところです。離宮院から外宮までの地図ありますから、
http://www.yokoyama-vc.jp/marugoto/walking60/12.pdf 
クリックして、拡大してから見てください。

内宮ははじめに、どこに造られたかですが、私は斎宮の近くであったのでは無いかと推察しています。即ち、斉宮から離宮院までの間にあったと考えています。
続けてかきますと、長くなりますので、次回にその理由を書こうと思います。


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