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No278 三重県の神島 [日本大好き]

又かと、思われるかもしれませんが、地図を出してください、愛知県の渥美半島の先に伊良湖岬があります。三重県と伊良湖岬の間に、神島があります。
 伊良湖岬には、泊まったことがあるのですが、伊良湖という湖はあったでしょうか?
ここは、元々、伊良古ではなかったかと思っています。伊良湖岬と神島を結んで、南西に行きますと、加布良古岬があります。
 ここは、安楽島というところの岬になります。安楽島町字加布良古に伊射波神社があります。
志摩国の式内社の三座は三座あると延喜式に書かれています。
粟嶋坐伊射波神社二座
粟嶋坐神乎多乃御子神社
両方とも、粟嶋と書いてありますが、今は安楽島です。

このことは、「楽しい人生」の中の「古事記と日本書紀」のカテゴリーの中の、No66、67
に書いています。http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2007/09/no37_12a4.html

その加布良古と伊良古が、関係があったのではないかと思っています。

もう一つは、岡山県笠岡市に高島という島があります。この島へ行くときは、「神島」から船に乗ります。
カミジマではなくコウノシマと読みます。この読み方はユダヤ人がつけた名前です。この土地は特別な所です。

突拍子も無い話と思われるかもしれませんが、古事記に書かれていることが本当のことであると考えます。高天原は蒜山高原にありました。ここに最高峰の1218mの毛無山があります。この毛無山の真北に宮内(神武の御所)があり、真南に高島と神島があり高島神社と神島神社に神武が祀られています。
又、神島は淡路島の伊弉諾(イザナギ)神社と御所市の本馬丘と同一緯度にあります。このような位置関係にある場所を設定するということは、緯度の測定ができ、地図を持たなかった古代人の知恵だと思います。
神島の北に福浦という地名があります。福浦は、神武天皇が、中国の雲南省から苗族を入植させたところだと思われます。

もう一度書きます。笠岡市の神島は、鳥取県の宮内と南北に並び、同緯度ということは、淡路島の伊弉諾神社と奈良県の御所市の本馬丘と横に並んでいることになります。これだけ、重要な位置が、偶然に並ぶことがあるでしょうか?

今度は、三重県の神島です。
12月2日、紅葉の俳句を作りに行こうと、妻と出かけました京都府福知山に大江町があります。ここには、元伊勢と呼ばれる内宮の皇大神社と外宮・豊受大神社があります。
ここは、以前に行き、荒廃していますから、もう駄目になっているのではないかと心配して行きました。そうしましたら、修理中でした。

そこで、「今年一番嬉しかったこと」に書きました。
http://skeikas.iza.ne.jp/blog/entry/432029/ 5回に分けて書いています。
 
外宮を先に行き、次は内宮に行きました。ここの壁に、次のような写真にあるように、壁に絵が貼ってありました。

字が小さいですが、冬至のときに、伊勢の海に出た太陽は伊勢の内宮・外宮を通り、大江町の内宮を通り、日室山の頂上を通過していることを表しています。

日室山の写真 を掲載します。
日室山は、麓からみても、綺麗な二等辺三角形の山です。写真の位置は、天岩戸大神宮から集落へ降りていく途中からの写真です。
内宮から天岩戸神社へ行く途中に日室ヶ嶽を遥拝するところがありますが、ここからの姿も二等辺三角系です。私はこのようにきれいな二等辺三角形の山は、人間が整形し、目印にしたり、ノロシをあげたりしたところだと思っています。

 今度はもう一度、伊勢です。外宮を通過した太陽は、一志町美杉村を通過します。
インターネットで、「日置 美杉村」を入力しますと、日置という方の会社などがいっぱいでています。電話帳で調べますと、半分ぐらいの方が、日置さんです。
わたしは、日置さんは、この通信網を構築した人たちの子孫ではないかと思います。日置流という弓の流儀がありますから、同時に、軍事面にも携わっていたのかも知れません。
 以前に日置で調べたことがあります。
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page180.html
に掲載しています。この中の「現在の日置姓の府県別数」が自分で褒めるのも、変ですが抜群です。 鹿児島を除きますと、現在の絹の生産地に集中します。
鹿児島は、神武天皇と関係があるのではないかと考えています。吉野ヶ里を攻撃するときに準備をしたのではと思っていますが、証拠はありません。
前回に、No83水に見舞われた伊勢神宮内宮
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2007/12/no83_2f79.html
最後に、内宮ははじめに、どこに造られたかですが、私は斎宮の近くであったのでは無いかと推察しています。即ち、斉宮から離宮院までの間にあったと考えています。

続けて書きますと、長くなりますので、次回にその理由を書こうと思います。
と書いています。神島と大江町の内宮とを結ぶ、線上に造られていたのではないかの推理の根拠を今回述べました。それは、斉宮の近くにあるのではないかと思っています。


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トミー

はじめまして、トミーと申します。
私も古代史ファンのシニアです。

日置や忌部氏に拘っています。門脇禎ニ先生が、出雲の西部に伴部日置氏を伴ったとされていることに、不思議に思ったのです。

太陽の道に、日置氏が関係しているのはなぜか?

新撰姓氏録に高句麗の人とされているのはなぜか?

by トミー (2008-04-10 18:28) 

vetty

日置は、古代史の解明に重要と思われます。しかし、記録されたものからは、困難ではないかと思っています。しかし、地名には残っていますので、地名・日置の周辺の小字を整理すると何か、浮かびあがるのではないかと考えています。
by vetty (2008-04-16 21:36) 

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