SSブログ

No302 伊勢神宮の位置(はじめに造られた) [日本大好き]

伊勢神宮が最初に造られたところは、No278 三重県の神島の下から五行目に、「最後に、内宮ははじめに、どこに造られたかですが、私は斎宮の近くであったのでは無いかと推察しています。即ち、斉宮から離宮院までの間にあったと考えています」と書きました。
 その理由を書きますと書いていますが、今読みなおしますと書いていません。
 あまりにも複雑すぎて書こうと思いながら書けなかったと思います。
今でも、書けないのは、同じですが、書いてみようと思っています。

日本の歴史には、多くの中国人と朝鮮人が登場しますが、古代からずっと、時間の流れにそって書かれたものはありません。外国の人どころか、日本人も、はじめの頃は神話として取り扱われ、歴史学としては、無視されています。
卑弥呼という女王のことは、魏志倭人伝という書物に載っていますから、有名ですが何者かは分かっていません。卑弥呼のことは、詳しく研究されているのに、どこに住んでいたのかすら、判っていません。

 このズタズタの日本史を紀元前から、ずっと、時間の流れに沿って、説明された人がおられます。田村誠一と言われる方です。
この方の仮説の中心をなすものは、日本に古来から素晴らしい絹があったので、この絹を求めて、世界から日本へ、いろいろの人がやってきたというだけの話です。
いろいろやって来た人の大半は、逃げてやって来た人です。一番スケールの大きいのは、ユダヤ人です。次に遠いのは、天山山脈の近くにあるクチャから亡命してきた月読命、
天照大御神は、呉の太伯の子孫です。速須佐男命は朝鮮からやってきました。この三人は、古事記では、イザナギとイザナミが生んだことになっていますが、勿論、生む訳がありません。
 イザナギとイザナミは北京の南にあった中山王国が紀元前三世紀に、趙に滅ぼされ、日本に逃げてきました。
逃げて来た人たちの一覧表を「やってきたひとたち」 に書いています。
 書いてある人たちは、全部が逃げて来た人ばかりではありません。「徐福」は秦の始皇帝が日本に派遣したと言われている人です。

 古事記でイザナギとイザナミが生んだとされている人たちが、一緒に国造りをしたところが、高天原です。田村誠一氏は、高天原は、岡山県の蒜山高原だったと説明されています。

この説のいいところは、歴史が連続しているところです。その他に、最大の魅力は、歴史上、謎と言われている部分が、次々、謎で無くなることです。それに加えて、いろいろ新しい発掘が発表されますが、よく新聞紙上で、歴史を書き換える発掘と書かれますが、仮説の弱い部分が、そのことによって補強されるように思えます。
こうした田村氏の説を理解するために、「新しい日本の歴史」と題して、自分で、田村氏が言われることが正しいかどうか確かめることを始めました。そのNo1は、「新しい日本の歴史」をクリックして頂きますと、見ることができます。
 その後、書きましたものが、膨大なものになりましたので、同じタイトルですが、
新しい日本の歴史」に移しています。

この調子で書いていますと、伊勢神宮のことになりませんので、途中から、書いてみます。

 古事記に国生みのことを書いたところがあります。ここでは、イザナギとイザナミが、日本列島を征服した様子が書かれています。
 そこで、国の本拠地となるところをヒルゼン高原に定めて、入植した所から、古事記は書かれています。ところが、滋賀県の方の統治がおかしくなってきましたので、アマテラス・スサノオ・ツキヨミに任せて、イザナギは近江八幡へ移動します。
 そうしますと、スサノオが、命令されたところへ行くのは嫌だとタダを捏ねて大暴れとなります。アマテラスが嫌になって、天の岩戸へ籠る騒動が、古事記に書かれています。
 その後、困ったことが二つ起こります。
一つは採れると思っていたお米が、ヒルゼン高原ではとないことが判り、鳥取の高千穂に降りることになりました。 ところが、此処を治めていたのは、大国主命です。そこで、アマテラスは、ここを明け渡すように迫ります。
 ここでも、絹は扱われていました。その中心人物は、建御名方神です。他の者は、国を譲ことは、承諾しましたが、建御名方神は承諾しませんでした。しかし、戦いを挑みましたが、建御名方神は諏訪湖まで逃げ捕まりますが、許してもらいます。その後、建御名方神は諏訪大社の祭神になっています。
 もう一つの困ったことは、九州にいっぱいの中国人がやってきましたが、丹後半島にもいっぱいやってきました。そこで、京都府天田郡にある夜久野町へ派遣し、鳥取の方へ来ることを防ぐために、月読命を派遣します。しかし、中国人は、南下を始めそうなので、アマテラス自身が、京都の福知山へ出かけます。
 アマテラスの孫のニニギ命が、鳥取県の高千穂に降臨します。アマテラスが福知山にいたという証拠はありませんが、次の所に、丹後の様子を書きましたので、読んで頂ければと思います。

No54 古代人のルール その1 

No55 古代人のルール その2 

No56 丹後半島の中国人その1  
No57丹後半島の中国人その 2   
No58丹後半島の中国人その3  14

もう少し、先を書いてみます。
 その後、北九州は殆ど、中国人の勢力範囲となります。最大の絹の集積地は、佐賀県の吉野ヶ里になります。絹は群馬県から運ばれていましたが、二番目の拠点となったのが、岡山県です。岡山県には、大きな古墳がありますが、その大部分は、中国人のものと思われます。
 天皇家は、鳥取県の伯耆を中心に支配していましたが、鳥取にあった久米郡を岡山の方に移します。それだけではなく、神武天皇は、中国人征伐を始めます。 それが、一般に言われている神武東征です。
 記紀などに書かれているものでは、九州の日向を出発したことなっていますが、島根県の日向から出発しています。
 そして、一番の拠点の吉野ヶ里を攻撃し、次は岡山の拠点を攻撃しますが、ここでは長くかかっています。よく判りませんが、14,5年かかって、第三の拠点である奈良を攻略しています。
群馬県から運ばれた絹は、いろいろのルートが利用されましたが、その一つが、大阪から木津川を経由、または、大和川を経由して、奈良、宇陀を通って、三重県の櫛田川を通って伊勢のルートと思われます。
 
 いかがでしたか ?
こんな歴史は聞かれたことはないと思います。
 
 奈良で歴史を研究しておられる方は、邪馬台国は奈良である。それも、桜井あたり、箸墓古墳のある辺り、三輪山がある辺り、この辺りに巻向遺跡があります。
ここでは、次々発掘が進み、次第に、邪馬台国の可能性が強まっています。

その根拠として、発掘をされている方は、いろいろのことを挙げておられます。

例えば、纒向遺跡から出土した土器844個のうち123個(15%)が東海・山陰・北陸・瀬戸内・河内・近江・南関東などから搬入されたものであるとされています。これだけ、全国からの土器が集まっているということは、誰かが、土器を売って歩いていたと考えるより、人間と一緒に土器が移動したと考えますと、纒向遺跡は、当時の日本の中心であったから、あちこちからやってきたと考えておられるのだと思います。
 それは、正しいのですが、何のために、人々は纒向遺跡に集まったのかということになります。別に鉄や金が取れたわけではありません。
 いやいや、当時のハイテク集団がいたとどこかに、書かれていましたが、もう少し、北へ移動しますと、唐古・鍵遺跡があります。こちらは、弥生時代最大級のヒスイ製勾玉が出土しています。これは新潟県糸魚川市周辺で採集される石が原料となっています。
ここは環濠集落で有名です。ここは、近畿では中国人の最大の拠点になっていたところではないかと推理しています。近くに黒塚古墳があります。ここからは、国内最多の三角縁神獣鏡33枚が出土。鏡に「師出洛陽」銘がある。椿井大塚古墳と同笵と思える鏡が出土しました。中国人の将軍級の人のお墓だと思います。

 如何でしたか、判り難いでしょうか?

書くことが多すぎて困っています。あまり書きますと、複雑でわからなくなると思います。

伊勢神宮は、調べてきたところでは、現在の所在地は、荒れた所で弥生遺跡もないということは、人が住んでいなかったことになります。
前に書きましたように、櫛田川流域は、前期の古墳しかないのに、宮川には、その後の古墳がみられるということは、櫛田川流域はより後の時代に人が入ったことになります。
 そのような所でも、作る必要があったことになります。

宮川を遡りますと、多岐原神社があることを書きました。ここから、奈良と和歌山に抜けるルートを天皇家は確保したのだと思っています。
 ここ2ヶ月ほどの間に書いたことは、すべて、伊勢神宮の位置をきめることに関係があると思います。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。