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No372 壬申の乱 宮滝を出発か(5) [日本大好き]

天智天皇は自分が死に向かっていることを知ります。それだけではなく、毒殺されつつあることを知り、弟の大海人皇子を枕元に呼び、皇位を継ぐように伝えたことが日本書紀に書かれています。
沢山読んだのではありませんが、多くの方は、日本書紀が天武天皇によって作られたと解釈しておられます。それを基本にしておられますから、大海人皇子に都合のいいというか、贔屓目の内容になっていると書いておられます。
例えば、僅かの人数で壬申の乱で勝利を収めたのは、準備をしていたからだとか、はじめから隠遁などするつもりはなかった。ある筈がないと言った、なんの根拠もない推理に基づくものによって話をすすめられています。
何分、壬申の乱について書かれた物の最大のものは、日本書紀ですから、この日本書紀が、天武天皇が作ったと云う事にしますと、ある部分の説明はつくとしても、大部分の謎は解明することはできません。
とは言うものの、私が言おうとしていることも、その僅かな日本書紀に書かれたことを基にしていますから、推理の積み重ねになります。
タイトルは、「宮滝を出発か」だけで、NO5になってしまいました。もう一度、まとめますと、大海人皇子らは、「宮滝近辺を出発した」ことは確かですが、僅か、30人ほどで、しかも徒歩で出発しました。徒歩の道中は安全で無いと、無理なことになります。
大名持神社は、古くから天皇家の先祖の一人である大国主神を祀った神社です。正確に言いますと、ニニギ命に征服された人たちです。この神社一帯は、多くの村を支配していたことを見て頂きました。藤原家に支配されて式内社になってからでも、名前に「おおあなむぢ」を残して、抵抗していましたところも見て頂きました。
大海人皇子らは、どうして、正規軍である大津朝廷に、僅か、1ヶ月ほどで完璧に近いとおもわれる勝利を収めたのかの謎を解くには、多くの勝因の積み重ねがあったからだと思います。
No4は、大海人皇子らは、逃げるために吉野に隠遁と考えていましたが、それだけではなかったことを考えてみようと思います。
「吉野」「丹生」をキーワードにして、WEBで検索します。
丹生川上神社http://yasaka.hp.infoseek.co.jp/niukawakami.html があります。
どうして、「吉野」「丹生」をキーワードにしたかと云いますと、「丹生」という地名や神社は、水銀に関係があり、中央構造線
http://www.nishida-s.com/main/categ3/chuuoukouzousen/chuuoukouzousen.htm
の上に並んでいるということを読んだことがあるからです。
丹生都比女神社http://www.asyura.com/0311/ishihara7/msg/187.html

吉野もそうであろうとの発想です。
見事に、丹生川上神社がありました。
丹生川上神社は、元は一つの神社でしたが、 明治以降、歴史的経緯により上社・中社・下社の3つの「丹生川上神社」ができたとされています。それぞれ、上社、中社、下社です。それぞれの祭神を記します。
中社 -- 罔象女神、配祀 伊邪奈岐命・伊邪奈美命・八意思兼命・大日霊貴命・与田別命・菅原道真・綿津見大神・開化天皇・上筒男神・大国主大神・事代主大神
上社 -- 高龗大神、配祀 大山祇神・大雷神
下社 -- 闇龗神
三社とも、水の神さんでした。

天武天皇の時代の白鳳4年(676年)、「人声聞えざる深山に宮柱を立て祭祀せば、天下のために甘雨を降らし霖雨を止めむ」との神託により、丹生川の川上に雨水の神を祀ったのに始まると伝える。
とされて、天武天皇とは関係ありそうですが、この神社のために、宮滝が選ばれたのではなさそうです。

丹生川上神社は、丹生神社ではなく、丹生川の川上にある神社でした。

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