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No374 壬申の乱 津振の集落 [日本大好き]

【思いがけず県犬養連大伴の乗馬に出会い、それにお乗りになった。皇后は輿に乗って従われた。津振川(吉野の津風呂か)に至って、始めて乗馬が届き、】と日本書紀にありますから、勝手に集落があることにしました。峠を通ったとしますと、少し、左手に行きまと津風呂春日神社があります。下りは時間にして10分ほどです。

 津風呂春日神社・看板より引用には、次のように由来が書かれています。
【 ここは古く日本書紀に見える「津振り」<つぶり>の地である。
約千三百年前(672年)大海人皇子(天武天皇)と、(う野皇女<うのひめのみこと>(持統天皇)が吉野離宮(宮滝)から御峠を越えてこの地に至り、隊伍を整えて宇陀から伊賀伊勢へと出陣せられた。世に言う「壬申の乱」の出発地点に当る。この時、ふる里の先人たちは車駕につき従ったと伝えている。」・・・・】
この後に、「奈良市津風呂町に昭和三十六年四月二十九日春日神社は遷祀された。つづいて、祖霊の静かに眠るこのふる里を思慕して止まぬ区民は、昭和三十八年十月二十日春日神社の旧境内に分社を祈念することになった次第である。」という記述がありますから、この神社は古いことが判ります。

祭神は武甕槌命、経津主命。天児屋根命、比賣命 です。 春日神社と呼ばれている通り、藤原氏の氏神である鹿島の武甕槌命、香取の経津主命と、枚岡神社に祀られていた天児屋根命・比売神が祭られています。
 大名持神社から7,8キロの所ですから、大名持神社の勢力範囲だったと思われます。従いまして、大海人皇子らが通った頃は、別の神が祀つられていたのではないでしょうか?
 大名持神社と同様の大名持御魂神(大国主神)が祀られていたのではないでしょうか?
大名持神社は式内社に指定されましたから、藤原氏の支配下になりましたが、藤原氏の支配下では、大己貴命が使われるのに、と云っても、古事記に書かれてある大穴牟遅神も使わないで、大名持命に「御魂」を付けて抵抗したのだと思います。津風呂春日神社では、抵抗できずに、藤原氏の言うままに、神社名を変えられて、祭神も変えられたのではないでしょうか? このように考えませんと、大海人皇子らは危険で通れなかったと思います。
 
 伯耆国の大山の麓に住んでいた大己貴神は、アマテラスから、国を明け渡すように云われます。次々に使者が派遣されますが、大己貴神(大国主神)が素晴らしい人だったようで、使者は入り浸りになって、帰って来なかったことが古事記に書かれています。最後に、派遣された使者が、武甕槌命と経津主命です。
アマテラスの方は、ヒルゼン高原で住んでいました。 住む所としては、素晴らしいところだと入植したものの、やはり、海に近いところへ降りなければどうしようもなかったと思われます。
両者の間で、当然、戦が行われたと思いますのに、日本書紀が伝えるものは、武甕槌命と経津主命を派遣しただけで、大己貴神は高皇産霊尊に服従したと書いてあります。
 ただ、武力による交渉ではなく、絹のことを取り仕切っている武甕槌命と経津主命を派遣したら、経済交渉が成り立つたと考えますと、理解できます。
 この絹担当の武甕槌命と経津主命が、どうして、絹の中心的な関東に移動したのか判りませんが、古事記の方を読みますと判ります。
 この時に、大国主神(大己貴神)の方の交渉相手は、建御名方神で、最後まで抵抗しましたが、負けて諏訪湖の所まで逃げて行って、捕まったことが記されています。建御名方神は、諏訪湖の所から、今後出ませんから、と云って、命を助けて貰っています。その後、諏訪神社の祭神として全国に祀られています。
 アマテラスの方は、この地方に武甕槌命と経津主命を派遣したのですが、どうして、この神が藤原氏の祖神とされているのか判りません。武甕槌命と経津主命は、古事記には登場しません。どうして違った名前の神なのか、自分で古事記を読みますと、少しずつ、日本書紀がどのような意図で書かれたかが判ると思います。
と書きましたが、 判らない癖に、
【No292 秩父の絹が吉野ヶ里まで 】
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2006-08-01
【武甕槌命と経津主命はどのような神】
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page974.html
 【交渉役の武甕槌命と経津主命】http://homepage1.nifty.com/o-mino/page983.html
などを書いていますが、2年経って自分で読んでも、よく理解できません。

くどくどと、壬申の乱の所に、秩父の絹やら、武甕槌命と経津主命のことを書きましたが、壬申の乱自体が、この絹を巡っての日中戦争と捉えていますので、読んで頂ければと思っています。

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太郎

 
 絹の起源を観ると こんな情報に出会えます。

江南起源の絹織物、漆製品、ジャポニカ
http://www.kodai-bunmei.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=93917
絹織物について。
蚕絹史の専門家である布目順郎によると、長江の少し北を流れる淮河を境にして北方の華北では寒冷地特有の三眠蚕(サンミンザン)、つまり三回脱皮する蚕の細い絹繊維が用いられたが、淮河以南の華中や華南では四眠系蚕の太い繊維(南蚕)が用いられている。
吉野ヶ里遺跡の甕棺から出土した弥生時代前期初頭の絹は、繊維の太い南蚕であり、華北や朝鮮半島に特有の三眠蚕は、後の弥生時代中期後半から現れ始めることが明らかになっている。
縄文時代から知られる漆製品について。
弥生初期の代表的な遺跡である福岡市の雀居(ササイ)遺跡や佐賀県の菜畑遺跡では、縄文時代から受け継がれてきたタイプの漆製品の他に、文様も外観も異なる別タイプの漆製品が混在・・
縄文漆はベンガラや朱を混和した赤色漆を丁寧に7~8回も塗り重ねているのに対し、弥生漆では下地の漆の上に1回だけベンガラなどの赤色漆を塗る簡略化した技法に変わっていた。しかもそれは戦国時代に長江流域で栄えた楚の国の製品と酷似しているという。縄文以来の伝統技術とみなされていた漆技術にも、江南の影響が及んでいたのである。
華中のジャポニカについては少々複雑。
北部九州の遺跡から出土する稲籾も農耕具も(例えば磨製石包丁や磨製石鎌、大型蛤刃石斧、木製の股鍬や直柄鍬など)、同時代の朝鮮半島南部域の遺跡のものと酷似していることから、半島経由で流入したと考えるのが自然だが、すべてそうだとするほど話は単純ではないようだ。
イネの遺伝子研究から佐藤洋一郎は、日本のイネの大部分を占める二種の変異型(a、b)のうち、aタイプは朝鮮半島で最も多く中国では比較的少ないので、半島経由で日本に流入したと考えて矛盾しないが、bタイプの遺伝子は朝鮮半島の在来種には存在せず中国に多いタイプだという。
bタイプの遺伝子をもつ稲籾は、近畿地方の弥生時代中期にさかのぼる池上曽根遺跡や唐子・鍵遺跡からも発見され、各地に広がっていた様相が浮かび上がってきている。長江下流域のイネが直接日本列島にもたらされた流れが確かに存在していたのである。

by 太郎 (2008-06-09 12:14) 

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