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No375 壬申の乱 進路を推理する [日本大好き]

【津振川(吉野の津風呂か)に至って、始めて乗馬が届き、これに乗られた。・・・・省略・・・・その日に、菟田の吾城についた。大伴連馬来田・黄書造大伴は吉野宮から追ってかけつけた。このとき屯田司の舍人土師連馬手は天皇の従者の人々に食事をたてまつった。】
と日本書紀に書かれています。
24日の朝早く出立したのでしょう。津振川の名があるだけで、その後は、「菟田の吾城」となっています。
 書いてありませんから、正確なことは判りませんが、急がないふりをして、実際には急いだ筈ですから、津振の集落を北上する道以外はなかったようです。

 地図を眺めながら、津風呂川に沿って北上し、現在残っている地名を拾ってみます。
入野---色生---三茶屋(この四つ辻は、高見越え伊勢街道と吉野街道の分岐点になっています)---牧---栗野---阿紀(吾城)
入野の集落には、國樔神社(入野峠の北方に鎮座する旧村社で、国栖人の祖神・石穂押分命を祀る。) があります。
入野集落には國樔神社が津風呂湖東端の勝光寺の付近に鎮座していた。この下宮の神社に対して当社は上の宮と呼ばれていた。なお下宮の国樔神社は当社へ合祀されている。上宮も下宮も創祀・由緒は不明。
 上宮も下宮も国樔神社であり同じ神を祀るようであるが、下宮の神は女神でありえらい神様だと見なされていたと云う。(吉野町史)
石穂押分命は『記』『紀』神武天皇の条に出る神武天皇が吉野川流域に入られた時、大岩を押し分けて奉迎した国栖人の祖で、国栖地方にこの神を祀る社が数社ある。

三茶屋の集落には、久須斯神社(この神社は久斯之大神を祀る三茶屋集落に住む人々の氏神です。)があります。久斯之大神は少名毘古那神とも呼ばれ、大国主之神とともに国造りをした神とされています。
には、九頭神社があります。この神社は、宇陀郡大宇陀町牧に鎮座しており、建御名方神(久須斯神)をお祀りしている旧村社。  境内社は天押雲神社(天押雲根命)と春日神社(天児屋根命)大山祇神社(大山祇命)である。

阿紀には、阿紀神社があります。http://kamnavi.jp/as/uda/akiaki.htm このページには、地図mapion 添付しておられますから、地図を出して、下の方へ移動させますと、上に書きました地名を見ることができます。

阿紀神社の主な祭神は、天照皇大神です、ここは、元伊勢とも呼ばれている神社です。そして、久斯之大神を祀る神社が並んでいます。この道は、アマテラスの系統の人たちが、東海地方から、絹を運んでいた道であると言っていいと思います。
 天武天皇が亡くなられた後に、藤原氏の時代となります。この頃(700~900)には、この道は、藤原氏が絹を運ぶシルクロードになったと思われます。
 この道路わきは、果たして絹を運ぶだけであったのか、絹の生産も行っていたのか、調べる必要があります。
 
宮滝から阿紀まで、地図上で直線距離を測りましたら、10kmぐらいでした。
山の中ですし、峠は2つ超えますから、20kmの距離ぐらいに見なければいけないでしょうか? 阿紀の先の大野についた時が、夜ですから、阿紀に到着したのは、お昼過ぎでしょうか?

如何でしたか?  このルートに登場した神社や神の名前は、国樔、国栖、九頭、久須斯神、少名毘古那神、建御名方神です。吉野の名物として、葛があります。みな関係があるのでしょう。
久須斯神は、薬(クスシ)の神かも知れません。 

入野の集落には、國樔神社(入野峠の北方に鎮座する旧村社で、国栖人の祖神・石穂押分命を祀る。) がありますと書きました。この神が古事記に出てくる神ですから、一番古いと思われます。クズと石穂押分命とは、言葉の音に共通点はありませんが、國樔はクズの人であって、薬の神さんである少名毘古那神、絹の神さんである建御名方神などが、その時の権力者に流されないように、神の名前を変えながら、自分たちの先祖の神として祀ったのではないでしょうか?


「この道は、アマテラスの系統の人たちが、東海地方から、絹を運んでいた道であると言っていいと思います。」と書きましたが、この道は、神武天皇が、神武東征の折に、通った道であることが判ります。
 神武東征は、殆どの人は、作り話のように捉えておられますが、紀元前に、200年ころから、日本の絹は、中国へ運ばれていました。この時に活躍した人は、ユダヤ人、アマテラスの一族、大国主神と少名毘古那神などです。そして、当時の中国人です。中国は、支配した人が、どんどん変わりました。紀元前後は漢人です。どの人たちに変わろうが、どんどん日本へやってきました。
大国主神と少名毘古那神は、ペアを組んで、日本中に養蚕や農業を広めたとされています。養蚕と農業は、古事記には、神産巣日神の子供だと書かれている少名毘古那が、外国から持ち帰った養蚕と農業を広めたと思われます。
時代は、ずっと、後のことになりますが、大宇陀には、森野旧薬園があります。古代には、宮廷の狩猟場であったと同時に薬草を採取する薬猟の地でもあったことが、推古19年(611)に薬猟が行われたことが日本書紀に記録されていることから判ります。

大国主神のことは、何故か、日本書紀では、伝えたくなかったらしく、出雲に追いやられてからは、歴史に登場しません。
アマテラス一族は、大国主神らが全国的に国造りをしました成果を横取りすることになりました。その時の最大のものが、絹です。国を明け渡すように言われましたが、最後まで抵抗したのが、建御名方神です。牧の神社は、宇陀郡大宇陀町牧に鎮座しており、建御名方神(久須斯神)を祭っていました。ということは、牧の住民は、建御名方神(久須斯神)と関係があったことになります。建御名方神は、アマテラスに負けて、諏訪湖まで逃げたことが古事記に書かれています。現在では、諏訪大社の祭神になっています。
紀元前50年ころの絹に対する支配力は、中国の人が上になります。神武天皇は、中国人は、九州そして、吉備、山城、奈良盆地など、殆ど手中に収めていきます。(ここに残っている大きな古墳は、殆ど、漢鏡が出土する古墳です)
当時、伯耆を治めていた天皇家は、この中国人をやっつけるために、立ち上がります。
当時、九州の最大の絹の集積地であつた吉野ヶ里を一番に攻撃、次は安芸、次は吉備と攻撃しました。最終的には、奈良になりますが、その時に通った道が、同じ道になったと思います。
逆に言いますと、群馬県から運ばれた絹は、いろいろのルートを通ったと思われます。その一つが、宇陀、吉野を通るルートだったと思われます。
このようなことは、太安万侶は知らなかったと思われます。しかし、神武東征の折に、国栖の人とたちが、神武天皇を助けた話は、聞いて古事記に書いたと思います。

古事記では、この人たちの前に、井氷鹿という国津神。贄持つの子、八咫烏も登場しています。
このような歴史の流れにあって、壬申の乱が戦われたことになります。


神武東征のことは、次のホームページのあたりに書きました。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page617.html

新しい日本の歴史—2  http://homepage1.nifty.com/o-mino/page593.html
このページは、殆ど、神武東征関連です。

No41 神武東征の敵 吉野ヶ里 http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2005-08-07
この辺りも同じものです。

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