SSブログ

No471天孫降臨(44)  シルクロード (1) [日本大好き]

前回、シルクロードについて書きましたが、従来、日本で考えられていた中国、西域を通るシルクロードではなく、インドを回るコースを記しました。
いろいろ書きました中に、故 深井晋司(元東京大学教授/元岡山市立オリエント美術館顧問)氏の『古代オリエントにおける東西文化の交流』の一文を紹介しました。
この中に、「かの張騫の遠征を機に「絹の道」が開かれたのもこのパルティア期(安息)の頃である」という文があります。この文ですと、いかにも、張騫の遠征した後に、「絹の道」が開通したように思われますが、そのような道はなかったのではないかと思っています。
 例えば、日本からローマ宛ての絹という品物が、配達されたわけではないと思います。中継点と思われる所には、ユダヤ人がいて、彼らは、ひたすら、現地の人を使って、受取人がいるわけではなく、次々と売買を繰り返し、結果的には、遠いところでは、ローマまで絹が届いたと云うことでしょう。

 従いまして、ローマ行きの便が、何時日本を出発して、何時、ローマに到着したかというような記録は当然ありません。その道の数は、50本以上あったかも知れません。しかし、その内の殆どは、パルティアを経由したのではないでしょうか? そうでなければ、パルティアが急速に大きくなることはできません。その後、小さくなったということは、絹は、パルティアを通過しなくなったからではないでしょうか? 金より軽く、値段は金より高かったと記されています。
 いつの時代でも同じです。パルティアを経由する値段が高くなることを知った人は、別のルートを開発したのではないかと思います。
 海上のルートが開発されたのではないでしょうか。このルートに力を発揮した国が、その後の世界を制覇することになったと思います。スペインであり、オランダであり、イギリスだったと思うのですが、この辺りの歴史の知識はゼロです。

 絹は、どこを通過しても、共通の暦と共通の数字が必要でした。数字の方は、国が違っても、イチ、ニー、サンと発音することが南シナやチベットやブータンで共通になりました。暦の方は、ユダヤ人が、神武東征の折、神武天皇を援助したために、奈良で戦争が終息した時を、元年1月1日として、初代天皇誕生の日と定めたことを古事記に書きました。古事記は、712年完成ですが、そのように、ずっと、云い伝えられていたはずです。西暦と一致するので、信用できないと思われるかもしれませんが、一致するのは当たり前です。その頃、全世界で共通する暦等は必要ありませんでした。
 世界を股にかけて、交易をしていたユダヤ人だけが必要としました。

絹の売買には、どうして、ユダヤ人を必要としたのでしょう。それは、彼らが世界のどこに居ても、自分のいる場所を知っていたからだと思います。
 そのテクニックが、古代日本に残されていました。
 この話を書いていますと、天孫降臨から、どんどん離れていきますので、一旦、中止です。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。