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No827神武東征(276)  神武天皇(219)  大物主大神(47) 三輪神社の由緒(6) [日本大好き]

もう一度、由緒の一部を記します。
当神社創立は崇神天皇の御宇、大和国大神神社の御分霊を勧請せるものなりと云ふ、蓋し崇神天皇七年諸国病流行盗賊蜂起の際、国家鎮護の神として大物主命幸魂奇魂を諸国に遷し祀り、大田田根子命をして大神を祭ら給ひしこと旧史に見ゆ、当社は則ち其の一なりと云ふ、

 この由緒の中の、<国家鎮護の神として大物主命幸魂奇魂を諸国に遷し祀り>の内の2ヶ所が気に入りません。
①国家鎮護の神
②大物主命幸魂奇魂

 崇神天皇七年は西暦で云うと何時かは判りません。殆どの人が、3世紀か4世紀頃として居られます。日本書紀に崇神天皇七年と書いてあるのに、西暦に直した途端にいつかわからないというのは、不思議なことです。
 崇神天皇五年に、〔この天皇の御世に、役病多に起こりて、人民死にて尽きむとしき〕とこじきには書いてあります。記紀の両方に書いてあると云うことは。人民の半分位が死ぬ様な事件があったと云うことです。
 
古事記の原文は「この天皇の御世に、疫病起こりて、人民死にて尽きむとしき」の短い文章です。古事記は漢字ばかりで書かれていますから、元の漢字の文章は、「此天皇之御世役病多起人民死為尽」(役はにんべんです)のわずか15文字です。是だけの情報ですが、その後、天皇にとっては、大変なことであったことが、この後の記述から想像できます。
 人民が死に尽きるほどですから、毒物や細菌では起こりえません。やはり、スペイン風邪のようなものであったと考えるしかありません。
日本の記録は是だけですが、189年に漢の元号が3回も変わっています。反逆・革命が起きても3回も変わることはないでしょう。188年から189年にかけてインフルエンザが発生して、日本に伝染したことになります。
こんな時代に中国と交流がないというのが、現在の日本の歴史学界の常識ですが、私は頻繁に交流があったと思っています。中国人は、紀元前200年から日本に来ており、この頃には瀬戸内海全域を占領していたのではないかと思われます。そのときの本拠地は吉備ではなかったかと考えます。
戦争ではなくても中国人に死者が多く出て、吉備に古墳が多い理由の一つにもなったと思われます。
朝鮮の古代史『三国史記』の新羅の193年に倭人が飢えて千人も渡来した記述があります。飢饉はいろいろの原因で起こりますから、192年に稲の作付けが出来なくて米の収穫が出来なかったから、193年は飢えたと考えますと、日本でインフルエンザが発生したのは、190年~192年の間と思われます。

 そんな話は聞いたことが無いなと思われるでしょうが、この外の事でも、崇神天皇はこの頃に生きておられて、その妹である卑弥呼は、いつ死んだか確かではありませんが、248年頃に死亡の説があります。
『古事記』は崇神天皇の没年を干支により戊寅年と記載しているので、これが正しいと云うことにしますと、318年または258年没と云うことになりますが、崇神天皇5年が、192年頃ですから、318年の崩御は無理となります。258年の崩御が正しい事になります。
崇神天皇11年4月、四道将軍が地方の賊軍を平定させて帰参、その様を奏上したと云うことになっています。少し、怪しい所はありますが、これを以て、
 ①国家鎮護の神 と言えなくもありませんが、全国を平定したのであれば、国家鎮護の為の神・大物主大神を全国に、置く必要などなかったことになります。

 それどころかもまだ、国家の体裁はなかったのではないかと思います。

②大物主命幸魂奇魂 とは、どのようなことを云うのか、意味が判りません。魂等を祀らなくても、大物主命を祀れば良いことです。この訳の分らない事は、日本書紀に書いてあることです。
 
西伯郡大和村大字小波にある三輪神社の由緒は、わざわざ、日本書紀に合せた由緒書きに思えてなりません。
 ここだけではなく、他の三輪神社のことを調べて見ようと思います。

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