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歴史各論  勾玉(51)  勾玉製造元(40)ヒスイ製勾玉(30) 造山古墳(5) [日本大好き]

田村誠一氏は、造山古墳のことを次の様に書いておられます。
戦争が起これば、文化は衰退の一途を辿るのが世界の常識です。中国も紀元前には、殷や中山王国には素晴らしい文化がありました。しかし秦の始皇帝以後は戦争に明け暮れて独自の文化は無くて、外国から略奪した文化遺産だけです。
 漢が進駐して来た時、一番最初に戦死した将軍は最も豪華な、しかも本国にはない様な古墳に祭られるのが、常識です。戦争が長引けばだんだんお粗末になっていきます。この考え方で吉備の古墳は考えるべきです。
 吉備の最大の古墳は造山古墳で、これが最初に進駐して来た将軍の古墳の筈です。この古墳の石棺は外に投げ出され、これは古墳の主が苗族の敵だった何よりの証拠です。
 更に間壁夫妻著「吉備古代史の未知を解く」でこの石棺の石は九州の阿蘇の石が使用されていたことが、X線解析法で分かりました。これは九州から運んだ人があり、九州からでないと、応急には石が見つからなかったためです。
 従って造山古墳が初代の墓と考えることです。
 この阿蘇の石を使用した石棺が山城国八幡町から見つかりました。ここは崇神の御代に河内の国造の漢族のタケハニヤスが拠点にした、高麗村(山城町)の近くです。この地名からも漢の軍隊は騎馬民族です。前漢が楽浪、玄莵、真番、臨屯を植民地にした以上、ここの騎馬民族を兵隊にさせることが常識です。
 吉備から騎馬民族の遺跡が見つかり、これは漢の軍隊だった証拠です。同時に楽浪等は食糧や武器の補給基地としても必要です。
 
 造山古墳には、6つの陪塚があるので、作山古墳の方が先に造られたのではないかと書きました。どちらが、先にしても、5世紀から6世紀の中ごろにはなりません。
 湯迫車塚古墳は、最後の将軍と書きましたが、この将軍が殺されたのは、190年頃だと思われます。
 次回は、阿蘇の凝灰岩のことを書きます。

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