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歴史各論  勾玉(53)  勾玉製造元(42)ヒスイ製勾玉(32) 阿蘇・凝灰岩 [日本大好き]

このシリーズは、歴史各論にしています。日本史の全体の流れを見るのではなく、勾玉のことを調べますと、勾玉から見た歴史が判るはずだと始めました。

 三種の神器という言葉があります。ウィキペディアに拠りますと、三種の神器とは、
三種の神器(みくさのかむだから、さんしゅのじんぎ)とは、天孫降臨の時に、天照大神から授けられたという鏡・剣・玉を指し、日本の歴代天皇が継承してきた三種の宝物である。
三種の宝物とは、八咫鏡・八尺瓊勾玉・天叢雲剣(「草薙剣」)のこと。
 上のことに加えて、次の様に書いてあります。
 天皇の践祚に際し、この神器の内、鏡と剣の形代及び勾玉を所持することが皇室の正統たる帝として皇位継承の際に代々伝えられている。
 鏡は、天皇に限らず、女性が結婚されるときには、持参されたと考えていました。しかるに、天皇家のお墓には、勾玉は出土するのは普通と考えていいのではと考えました。
 
 ところが、変な事になりました。勾玉の材料は、石、ガラス、硬玉、ヒスイなどがありますが、最も手に入りにくいと思われるヒスイ製勾玉が出土したのは、 次の所を見て頂きますと、判りますが、九州の古墳から出土しています。
http://www21.atpages.jp/skeikas/page173.htmlしかも、中国人と思われる墳墓ばかりです。では、ヒスイは中国で産するのかと云いますと、中国で産するヒスイは、軟玉だそうです。
ヒスイの産出地は世界的にも限られており、安定した量の硬玉の産出地はミャンマーのみである。(ウィキペディアより)
 日本では、 新潟県糸魚川市姫川流域、北陸の海岸や富山県の宮崎・境海岸(ヒスイ海岸)、兵庫県養父市(旧大屋町)、鳥取県、静岡県引佐地区、群馬県下仁田町、岡山県新見市の大佐山、熊本県八代市泉町などとあります。主には、新潟県糸魚川市姫川流域だそうです。
古墳からヒスイ製勾玉が出土しただけではなく、主な環濠遺跡から出土していることも判りました。これらの環濠遺跡は、すべて、中国人の遺跡だと考えています。
 九州の人が、わざわざ、糸魚川まで、勾玉を買いに行ったのではなく、環濠遺跡は、関東からの絹を中国まで運ぶ重要な拠点だったと考えています。
 此処までは、勾玉を調べることによって、日本の歴史を眺めることは出来たのですが、天皇家と勾玉が結びつくのではなく、勾玉は、鏡と同様に、中国人から切り離すことのできないものであることが判りました。
 ところが、九州の中国人の人たちは、どうやら、出雲と吉備に移動していたことが判りました。
 その大将が、造山古墳の被葬者であったらしいことや、湯迫車塚古墳の被葬者は、自分たちの家来を京都や奈良に入植させていました。古墳の名前で云いますと、天神山古墳や椿井大塚山古墳の人たちは、湯迫車塚古墳の被葬者から、鏡を貰っていました。
 余りにも多い古墳を眺めるうちに、石棺を造るのに、わざわざ、阿蘇・凝灰岩を運んでいた人がいたことが判りました。
 阿蘇石 (凝灰岩) http://www21.atpages.jp/skeikas/page105.htmlをご覧ください。見事に、阿蘇石 (凝灰岩)を使って、石棺を造った人達が浮かび上りました。
家形石棺の写真が次にあります。
http://www2.tok2.com/home/sekisitu/iegata.htm家形石棺は、桁違いに大型の石棺ですから、古墳の建設は、大変だったと思います。だから、新しいタイプとは言えないですが、岡山や奈良、大阪までやって来ても近くの石を使うことが出来なかったとしますと、やって来てまだ、勢力がなかったと考えるしかないと思われます。
⑦より後は、家形石棺です。⑦は、植山古墳と云われています。
http://inoues.net/ruins/suiko_new.htmlです。

 この古墳は、推古天皇と竹田皇子の墓とされています。そうなりますと、おかしいですね。推古天皇は、九州出身の人か、どうしても、石棺は、阿蘇石 (凝灰岩)を使ってほしいと遺言しておいたことになります。
タイトルの勾玉(53)  勾玉製造元(42)ヒスイ製勾玉 の部分は、影が薄くなりましたが、
阿蘇石 (凝灰岩)を使っている古墳は、全部、丁寧に考察する必要がありそうです。

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