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東の高天原(26) 西の高天原(19)磐田原台地(17) 国分寺(12) 歴史各論 [高天原]

ウィキペディアの資料を拝借しますと、
 国分寺(こくぶんじ)、国分尼寺(こくぶんにじ)は、741年(天平13年)、聖武天皇が国情不安を鎮撫するため、各国に建立を命じた寺院。壱岐や対馬には「島分寺」(とうぶんじ)が建てられた。

 この文章は、あちこちで見ていますから、記憶力の悪い私でも、741年は覚えてしまいました。変な譬ですが、この事業は当時としては、国家プロジェクトであったと思われますから、一札の命令書で、全国、何所でも、完成したと考えるのは、間違いでしょう。現在の新幹線でも、初めて東京---大阪間に完成して以来、まだ、全国に完成していません。

 [国情不安を鎮撫する] とは、どのような事だったのでしょうか。
 
 私は、その内に、聖武天皇という方は、どの様な人生を送られたのか、調べて見たいと思っています。調べもしない内に、結論を先に書くのは、変ですが、聖武天皇には、政治を行う力は殆ど無かったのではないかと考えています。無能という意味ではなく、藤原氏の勢力が強すぎて、殆ど、しようと思うことは、出来なかったのではないかと思っています。
 
 そのことが、前回、書きました和泉国の誕生と国分寺の建立は、同時に、行うことは、無理であったことを表しています。
 河内国の一部を分割して716年に和泉国を作りました。1ヶ月もしない内に、河内国大鳥郡を追加しました。しかし、740年には、和泉国の和泉監を廃止して、河内国に戻しました。24年で、計画は破綻したことになります。
 なにか、不都合があったはずですが、調べていません。そして、17年後の757年に再び、和泉国が誕生したことになっています。
 740年には、和泉国の和泉監は廃止していますから、ゴタゴタ続きであった、次の年の741年に、国分寺と国分尼寺を建てよという命令が行われる筈はありません。
 
 和泉市が発行された『考古学の世界』常設展示解説書 P14に
 和泉国の国分寺は国の設置が他国より遅れたため、平安時代の839 (承和6) 年になって、以前から存在した安楽寺(国分町)を国分寺に昇格させたと記録されています。
と書くと共に、和泉市では、坂本臣の坂本寺、池田首の池田寺、信太首の信太寺、茅渟の県主の和泉寺が密集していたと記しています。
 そうであれば、国分寺ぐらい建てることは出来たと思われますが、現実には、建てることは出来なかったことになります。
 それでも、安楽寺(国分町)を国分寺とした事は、記録に残したことになります。
 これは、どの様に考えれば良いのでしょう。

 私は、全国に国分寺を建てようとしたのは、聖武天皇ではなくて、藤原氏の一族の人たちが、試みたのではないかと推理しています。

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