SSブログ

東の高天原(35) 西の高天原(28)磐田原台地(26) 国分寺(21) 歴史各論 [高天原]

如何でしたか。 3つの島は、小さいのに神社が多いことと、多いだけではなく、面積に比べて、式内社も多いことが判りました。
 もう一度書きますと、対馬 29、壱岐24 隠岐16の式内社です。
【歴史の不思議】http://www21.atpages.jp/skeikas/ でご自分の目で確かめてください。

 ①対馬や壱岐よりもどうして、隠岐の方が式内社が少ないと思われますか。
  長いこと、このブログを読んで頂いている方には、簡単に解ると思います。式内社は、藤原氏が元々在った、神社を式内社に制定した神社です。藤原氏の正体は、判らないことになっていますが、千葉県辺りにいた人たちと考えています。彼らの先祖は、但馬に移動したのではないかと推理しています。
 その根拠は一言では言えませんが、
 日本史 但馬の歴史 茶すり山古墳をはじめとして、以後78回、但馬のことを調べました。但馬を探る http://blogs.yahoo.co.jp/k91293329k/16487925.html
こちらには、51回書きました。 両方とも、中途半端なものになりましたが、あらゆる所に、藤原氏の匂いがいっぱいです。その後、藤原氏は、南下します。

 文章にはしませんでしたが、彼らの足跡は、次の所に保存しています。
http://obitikuoosaka.blog.fc2.com/blog-entry-35.html 
大阪府茨木市に「新屋坐天照御魂神社 」という名前で残っています。天照という名前が、有りますから、天皇と関係があると思われますが、ニギハヤヒと関係が有ります。
 茨木のこの人たちは、河内に降臨したとされている人と同じ人たちではないかと考えています。この人達は、一度、歴史からいなくなったのではないでしょうか。
 それを復活させたのが、藤原氏ではないでしょうか。日本書紀には、大いに登場させたように思います。
 その時には、天皇家よりも血筋が、正統であることになっています。天皇家よりも、早く奈良を制圧したことが、日本書紀に書かれています。そのニギハヤヒを征伐に出かけたのが、伯耆国に居た神武天皇です。
 この歴史が、正しいのだと、藤原氏は、あちこちの歴史を書換えました。主に、古事記に書いてある歴史を書き換え、正しい歴史は、これですと、日本書紀を完成させました。
 どちらの言い分が正しいか判りません。隠岐国の方が、天皇家の勢力が強かったから、式内社は少ないと理解します。その制定された式内社の中には、古事記に出てくる神さんは、ゼロです。
 藤原氏は、大阪の枚岡神社と奈良の春日神社に、自分たちの先祖である神を祀りましたから、千葉---但馬----大阪---奈良へ移動したと推理しています。藤原氏は、どうやら、中国からやって来た人たちと思われます。

② 対馬と壱岐は、どうして式内社が多いと思われますか
 次回にします。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。