小さな発見・新しい発見 7つの銅鐸発見(15) [神社からさぐる歴史]
又かと思われるかも知れませんが、田村誠一氏です。田村氏は、1981年3月17日~5月5日まで、東京国立博物館で開催された「中山王国文物展」を見られて、感動して、関西で行われた時も見に行かれました。
その時に見られた展示会で、黒陶器と漆が出土していることを知ることになられます。 実物をみることは出来ませんが、その時に発売されました図録の写真を次の所で見ることが出来ます。
http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20120828/p1
一方、田村誠一氏は、よく似た黒陶器を東北で出土したことを覚えておられ、此処の人達が、中国の中山王国へ移動し、此処でも、又、全員が逃げ出さなくてはならないこととなり、日本に逃げて来たという発想をされました。
少々無理な発想ですが、田村誠一氏の論法には、弱い私も同じように考えて見ました。
東北から逃げ出した人などいるのかと云いますと、青森県の三内丸山遺跡の人達です。大阪から遠いですが、発掘されて間なしに見学に行ってきました。
この遺跡は、そのまま、現在でも、住もうと思えば、住める程の遺跡でした。仕事柄、犬のお墓には驚かされました。犬が人間のお墓の隣りに、別に埋葬されていました。と云うことは、犬は10000年前から、人間に飼われていたことが判りました。
この遺跡で驚いたことは、紀元前5000年に、急に人間が居なくなったことが判った様に説明されていたと思います。
勿論、全員がどうして、どこへ行ったのは不明ですが、田村誠一氏は中国へ渡ったのだと。
渡った先は、中国の北京の南東50km程の所にある中山王国です。
先に紹介しましたhttp://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20120828/p1 をご覧ください。 2枚目と3枚目の写真だけが、「中山王国文物展」の写真です。
一枚目は、表紙ですが、どうやら置物らしいですが、黒い部分は、黒陶器の特徴のある黒色の部分です。これは表紙に使われただけに、本物は素晴らしいものだったと思います。
二枚目は、蝋燭を立てる台だと思いますが、この台は、現在でも、つくるのは難しいと思われます。一見銅製品の様ですが、確か、二つの金属が繋ぎ合わされていた様に田村氏は書いて居られたと思います。
融点の異なる物を繋ぎあわせるにはどうすればいいかは、私の知識では知りません。それと、人物の表情ですが、写真からだけでは判りませんが、いい表情をしているように思います。
このことは、
白狄人は鉄も作っていた
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page675.html
に書きましたので、読んでください。
このローソク立てを幾つも造るとなりますと、型になる物を作る必要があります。銅鐸どころではありません。
これは、これと同じ物を蝋を使って作り、鋳型をつくり、蝋を溶かすと、これと同じ形の空洞ができる。その鋳型に銅を流し込む。この方法のことを忘れてしまいましたが、これしか有りません。
これは、現代になって使用されるようになった技術だと書いて居られます。
それだけではありません。このような装飾には、蛇のデザインは使いませんが、ローソクを立てる下の部分は、蛇の様です。
写真ですと、よく解りませんが、実物を見られた田村氏にとっては、感動そのものだったと思います。
国内では、「中山王国文物展」は三回行われたのですが、きっと、三回とも観に行かれたのではないかと思いました。
見るたびに、新しい発見をされて、黒陶器の色の素晴らしさは、頭から離れなかったのではないかと想像します。
この「中山王国文物展」の展示品の素晴らしさは、現在の中国の人にも分らないのではないでしょうか。
田村氏は、どうして調べられたか判りませんが、この黒陶器は、中国では、ここにしか有りませんと書いて居られたと思います。
又、続きを書きます。
その時に見られた展示会で、黒陶器と漆が出土していることを知ることになられます。 実物をみることは出来ませんが、その時に発売されました図録の写真を次の所で見ることが出来ます。
http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20120828/p1
一方、田村誠一氏は、よく似た黒陶器を東北で出土したことを覚えておられ、此処の人達が、中国の中山王国へ移動し、此処でも、又、全員が逃げ出さなくてはならないこととなり、日本に逃げて来たという発想をされました。
少々無理な発想ですが、田村誠一氏の論法には、弱い私も同じように考えて見ました。
東北から逃げ出した人などいるのかと云いますと、青森県の三内丸山遺跡の人達です。大阪から遠いですが、発掘されて間なしに見学に行ってきました。
この遺跡は、そのまま、現在でも、住もうと思えば、住める程の遺跡でした。仕事柄、犬のお墓には驚かされました。犬が人間のお墓の隣りに、別に埋葬されていました。と云うことは、犬は10000年前から、人間に飼われていたことが判りました。
この遺跡で驚いたことは、紀元前5000年に、急に人間が居なくなったことが判った様に説明されていたと思います。
勿論、全員がどうして、どこへ行ったのは不明ですが、田村誠一氏は中国へ渡ったのだと。
渡った先は、中国の北京の南東50km程の所にある中山王国です。
先に紹介しましたhttp://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20120828/p1 をご覧ください。 2枚目と3枚目の写真だけが、「中山王国文物展」の写真です。
一枚目は、表紙ですが、どうやら置物らしいですが、黒い部分は、黒陶器の特徴のある黒色の部分です。これは表紙に使われただけに、本物は素晴らしいものだったと思います。
二枚目は、蝋燭を立てる台だと思いますが、この台は、現在でも、つくるのは難しいと思われます。一見銅製品の様ですが、確か、二つの金属が繋ぎ合わされていた様に田村氏は書いて居られたと思います。
融点の異なる物を繋ぎあわせるにはどうすればいいかは、私の知識では知りません。それと、人物の表情ですが、写真からだけでは判りませんが、いい表情をしているように思います。
このことは、
白狄人は鉄も作っていた
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page675.html
に書きましたので、読んでください。
このローソク立てを幾つも造るとなりますと、型になる物を作る必要があります。銅鐸どころではありません。
これは、これと同じ物を蝋を使って作り、鋳型をつくり、蝋を溶かすと、これと同じ形の空洞ができる。その鋳型に銅を流し込む。この方法のことを忘れてしまいましたが、これしか有りません。
これは、現代になって使用されるようになった技術だと書いて居られます。
それだけではありません。このような装飾には、蛇のデザインは使いませんが、ローソクを立てる下の部分は、蛇の様です。
写真ですと、よく解りませんが、実物を見られた田村氏にとっては、感動そのものだったと思います。
国内では、「中山王国文物展」は三回行われたのですが、きっと、三回とも観に行かれたのではないかと思いました。
見るたびに、新しい発見をされて、黒陶器の色の素晴らしさは、頭から離れなかったのではないかと想像します。
この「中山王国文物展」の展示品の素晴らしさは、現在の中国の人にも分らないのではないでしょうか。
田村氏は、どうして調べられたか判りませんが、この黒陶器は、中国では、ここにしか有りませんと書いて居られたと思います。
又、続きを書きます。
2015-06-05 03:38
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