真説建国史のあらまし(3) 5ページ [真説 建国史]
中国の宋書に日本と朝鮮占領軍軍司令官に倭王が任命されていた。これを学者は天皇と誤認も甚しい。倭王は天皇の敵の中臣で、しかも471年の倭王は武でなくて興だった。
この倭王興の子孫の中臣鎌子がクーデターを起こして大化の改新を行った。
本居宣長は古事記を35年も研究した結果古事記こそは日本の正しい歴史だと断定した。
しかし明治の歴史学者は藤原や中臣があらわした国史を信用して、日本書紀を国史の基本にしたのである。
不比等は中国にまねて天皇即位制を導入した。これは天皇が崩御して始めて皇太子が即位する制度である。更にこの即位した時を各天皇の元年にしたが、この様な制度はこの様な制度は大正天皇以降で古代にあるわけもなかった。
日本書紀に書かれた資料だけで皇太子が出生された時の天皇の年令は65才から94才で、これは在位を短くしても矛盾が残る。
天皇家は家督相続制であり、古事記には無関係に系図が書かれている。従って享年には無関係に神武天皇までの年代の推定が可能だ。
これより管理人の私の感想 上記の「宋書」と有るのは、全文は、次の所で見ることが出来ます。
『宋書』倭国伝
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun7-sosho.htm
前回に習って、理解困難な部分の私の解釈を記します。
①中国の宋書に日本書紀と朝鮮占領軍軍司令官に倭王が任命されていた。これを学者は天皇と誤認も甚だしい。
この部分のことは、[倭の五王]と呼ばれている事だと思います。
[倭の五王]ウィキペディアに依りますと、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E3%81%AE%E4%BA%94%E7%8E%8B
倭の五王(わのごおう)とは、中国の歴史書に記述のある倭国の五人の王、すなわち讃、珍、済、興、武をいう。倭の五王が誰であるかに関しては諸説ある。
以下はご自分でお読みください。
ここの説明から解るように、倭の五王の事は、413年 - 478年の間に少なくとも9回は朝貢していると記されています。 中国の歴史のみですと全部、嘘だと否定しても良いのですが、日本の歴史書である『古事記』と『日本書紀』にも書いてないと云うことは、どう云う事と思われますか。 書いてないことが、最大に語っていると思います。
第四話 占領軍軍司令官 前ページ12
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2009/01/12-a040.html
ここに書いてある[前ページ12]とは、田村氏が発行された『西大寺ヤマト』の12ページという意味です。
読んで戴ければ判りますが、[前ページ12]は書いてありません。「西大寺ヤマト」には書いてありますが、活字が4分の1ぐらいで書いてあるので、割愛しました。
第四話 占領軍軍司令官 〝邪馬台国〟256頁
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2009/01/256-105f.html
これは、朝日新聞が、『邪馬台国』という本を出版する前に、「卑弥呼の使いとして、魏の都に行った難升米は、魏の植民地征服のための、最高指揮官に任命された」と投書は教えてくれたが、この事が、正しいとすれば、朝日新聞は、ケシカランではないかと田村氏が、立腹して居られる文章です。
このことを立証するために、『第四話 西大寺ヤマト』を書かれたことになります。この冊子は、63ページの非売品ですが、4番目に書かれた本であることは、次のページから判ります。
『田村誠一氏の著書』http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page600.html
余談になりますが、ここに掲載しました著書は、全部手に入れることは出来ません。
どうしてこの様なことになるかと云いますと、ひねくれ者の私は、手に入れた人が、処分したからだと考えています。
なぜ、処分したかと云いますと、これらの著書全体を通じて云える事は、これまで、聞かれた事のない日本の歴史だからです。
それのお先棒を担いだのが、朝日新聞だと書かれた事になります。非売品とは云え、
[中国の宋書に日本書紀と朝鮮占領軍軍司令官に倭王が任命されていた。これを学者は天皇と誤認も甚だしい]は書き過ぎだろうと思い、朝日新聞の『邪馬台国』を読む事にしましたが、手に入れることは出来ませんでした。
次のページもご覧ください。
第四話 宋への上奏 p-15
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2009/01/p-15-2db9.html
いろいろの倭の五王についてのものを読みましたが、読めば読むほど、プロも素人も含めて、訳が判らない人ばかりであることが判ります。
『古事記』と『日本書紀』にも書いてないと云うことは、どう云う事と思われますかと記しましたが、判られましたか。
『古事記』と『日本書紀』に書いてないから解らないのです。
中国の歴史は、しっかりと解っています。
これは、天皇家の五人の天皇が、生きておられた事を知られたくないから苦労したと思います。日本書紀を書いた藤原不比等が、一生懸命考えた事でしょう。しかし、それでも、古事記が残っていては困りますから、古事記に、書かれていた部分を書き変えたのではと推察しています。
しかし、之を解決するには、10年以上掛かるでしょう。そして、結論は判らないことが判ると思います。
『田村誠一氏の著書』http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page600.html
ここに書きました著書にヒントが一杯書いてありますが、すべて、古書店にも有りませんから、読む事は出来ません。
簡単にヒントを書きますと、倭の五王は、この頃、天皇と同じぐらいの権力を持って居た河内の人でないかと考えています。
それはどうして判るかと云いますと、河内に有る古墳をすべて、自分の脚を使って歩かれる事だと思います。
歴史の知識は必要有りません。どれだけ、河内の人は、全国から富を集めて、大きくなっていったかが、肌で感じる事が出来ます。(自動車をつかっては駄目だと思います)
これより管理人の私の感想 上記の「宋書」と有るのは、全文は、次の所で見ることが出来ます。
『宋書』倭国伝
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun7-sosho.htm
前回に習って、理解困難な部分の私の解釈を記します。
①中国の宋書に日本書紀と朝鮮占領軍軍司令官に倭王が任命されていた。これを学者は天皇と誤認も甚だしい。
この部分のことは、[倭の五王]と呼ばれている事だと思います。
[倭の五王]ウィキペディアに依りますと、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E3%81%AE%E4%BA%94%E7%8E%8B
倭の五王(わのごおう)とは、中国の歴史書に記述のある倭国の五人の王、すなわち讃、珍、済、興、武をいう。倭の五王が誰であるかに関しては諸説ある。
以下はご自分でお読みください。
ここの説明から解るように、倭の五王の事は、413年 - 478年の間に少なくとも9回は朝貢していると記されています。 中国の歴史のみですと全部、嘘だと否定しても良いのですが、日本の歴史書である『古事記』と『日本書紀』にも書いてないと云うことは、どう云う事と思われますか。 書いてないことが、最大に語っていると思います。
第四話 占領軍軍司令官 前ページ12
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2009/01/12-a040.html
ここに書いてある[前ページ12]とは、田村氏が発行された『西大寺ヤマト』の12ページという意味です。
読んで戴ければ判りますが、[前ページ12]は書いてありません。「西大寺ヤマト」には書いてありますが、活字が4分の1ぐらいで書いてあるので、割愛しました。
第四話 占領軍軍司令官 〝邪馬台国〟256頁
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2009/01/256-105f.html
これは、朝日新聞が、『邪馬台国』という本を出版する前に、「卑弥呼の使いとして、魏の都に行った難升米は、魏の植民地征服のための、最高指揮官に任命された」と投書は教えてくれたが、この事が、正しいとすれば、朝日新聞は、ケシカランではないかと田村氏が、立腹して居られる文章です。
このことを立証するために、『第四話 西大寺ヤマト』を書かれたことになります。この冊子は、63ページの非売品ですが、4番目に書かれた本であることは、次のページから判ります。
『田村誠一氏の著書』http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page600.html
余談になりますが、ここに掲載しました著書は、全部手に入れることは出来ません。
どうしてこの様なことになるかと云いますと、ひねくれ者の私は、手に入れた人が、処分したからだと考えています。
なぜ、処分したかと云いますと、これらの著書全体を通じて云える事は、これまで、聞かれた事のない日本の歴史だからです。
それのお先棒を担いだのが、朝日新聞だと書かれた事になります。非売品とは云え、
[中国の宋書に日本書紀と朝鮮占領軍軍司令官に倭王が任命されていた。これを学者は天皇と誤認も甚だしい]は書き過ぎだろうと思い、朝日新聞の『邪馬台国』を読む事にしましたが、手に入れることは出来ませんでした。
次のページもご覧ください。
第四話 宋への上奏 p-15
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2009/01/p-15-2db9.html
いろいろの倭の五王についてのものを読みましたが、読めば読むほど、プロも素人も含めて、訳が判らない人ばかりであることが判ります。
『古事記』と『日本書紀』にも書いてないと云うことは、どう云う事と思われますかと記しましたが、判られましたか。
『古事記』と『日本書紀』に書いてないから解らないのです。
中国の歴史は、しっかりと解っています。
これは、天皇家の五人の天皇が、生きておられた事を知られたくないから苦労したと思います。日本書紀を書いた藤原不比等が、一生懸命考えた事でしょう。しかし、それでも、古事記が残っていては困りますから、古事記に、書かれていた部分を書き変えたのではと推察しています。
しかし、之を解決するには、10年以上掛かるでしょう。そして、結論は判らないことが判ると思います。
『田村誠一氏の著書』http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page600.html
ここに書きました著書にヒントが一杯書いてありますが、すべて、古書店にも有りませんから、読む事は出来ません。
簡単にヒントを書きますと、倭の五王は、この頃、天皇と同じぐらいの権力を持って居た河内の人でないかと考えています。
それはどうして判るかと云いますと、河内に有る古墳をすべて、自分の脚を使って歩かれる事だと思います。
歴史の知識は必要有りません。どれだけ、河内の人は、全国から富を集めて、大きくなっていったかが、肌で感じる事が出来ます。(自動車をつかっては駄目だと思います)
2015-06-11 08:25
トラックバック(0)