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小さな発見・新しい発見 白鳳(11)  近江大津へ遷都(2) [神社からさぐる歴史]

 遷都の流れを見るために、「遷都の一覧表」を記します。

遷都の一覧表
① 643年  飛鳥板蓋宮   皇極
② 645年  難波長柄豊崎宮 孝徳------大化改新(646)
③ 655年  飛鳥宮     舒明
④ 667年  近江大津京   天智
⑤ 672年  飛鳥浄御原宮  弘文・天武
⑥ 694年  藤原京     持統・文武
⑦ 710年  平城京     元明・元正・聖武
⑧ 740年  山背恭仁京   聖武
⑨ 744年  柴香楽宮    聖武
⑩ 744年  難波京    聖武
⑪ 745年  平城京     孝謙・淳仁・称徳・光仁
⑫ 784年  長岡京    桓武
⑬ 794年  平安京     桓武

 調べを正確にしたわけではありませんが、この表には、平安京は最後に有ります。
その前に、頭の中ですっきりしない都が二つあります。

近江大津京 (天智天皇) と長岡京 (桓武天皇) です。
両方とも、一度だけ訪れました。ここが宮城の遺跡だと云う柱が建てられてあっただけで、なんの感動も湧きませんでした。
 この地に天皇が、一時避難されたか、旅の途中に休まれたのであれば判りますが、それにしては、規模が大きいなと思いました。このような所に該当するものは、柴香楽宮でした。ここに訪れた時は、これは間違いであろうと思いましたが、歴史の専門の方が、調べられて、間違いないとされていますから、今の私には、どうしようもありません。
しかし、どの程度、判っているかをウィキペディアの記事を紹介することで、皆さんに知って頂こうと思っています。

近江大津京
 次に挙げるタイトルは、ウィキペディアのタイトルです。
近江京と「大津京」  以下、その説明文です。
日本書紀には天智天皇の近江の都を「近江京」と表記しているが、平城京や平安京のような条坊制が存在したことを示す記載はないほか、特別行政区としての「京域」の存在も確認できない。このことから、近江京とは「おうみのみやこ」の意味であると考えられる。
明治時代に喜田貞吉(歴史学者)が条坊制の存在を信じて文献史料にはみえない「大津京」という語を用いて以降、歴史地理学や考古学の研究者がこの語を用いるようになった。近年では条坊制の存在を否定する研究者までがこの語を用いているためその概念や定義は極めて曖昧となり、研究に混乱をきたしている。
また、JR西日本湖西線の西大津駅は、地元自治体の請願により2008年3月に「大津京駅」に改称されたが、「大津京」という用語や概念をめぐり更なる誤解や混乱を生む恐れが指摘されている。  

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%AE%AE#.E8.BF.91.E6.B1.9F.E4.BA.AC.E3.81.A8.E3.80.8C.E5.A4.A7.E6.B4.A5.E4.BA.AC.E3.80.8D

 歴史上の事実として、学門上存在する[近江大津京]の説明が僅か、これだけです。この文面からしますと、この記事を書かれた方は、[近江大津京]の存在を疑問視しながら、正確に書かれたのだと思います。

 発掘された遺跡は、庶民の住まいの跡ではないことは確かでしょう。天皇級の人の住居跡と思われます。
 
 間を飛ばして推測だけを書きますと、天智天皇も大友皇子も住まわれたと思われます。

しかし、準備をしたのは、中国人で、天智天皇はここで幽閉され、殺害されました。その後、若い大友皇子を無理矢理に天皇にするつもりでしたが、天皇になられる前に、大友皇子は自殺されましたから、天皇になられた証拠は有りませんが、此の辺りの歴史は、
「日本書紀には天智天皇の近江の都を「近江京」と表記している」と書かれている通り、藤原不比等による日本書紀に書かれていることが間違っていることになります。


近江朝 以下ウィキペディアにある説明です。
天智天皇が近江大津宮に都を置いた西暦667年から、大友皇子(弘文天皇)が西暦672年の壬申の乱で滅亡するまでの期間を近江朝(おうみちょう)と言う。名称は、近江大津宮に都が置かれたことに由来する。ほぼ天智天皇の治世と重なることから天智朝とも呼ばれる事がある。

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