小さな発見・新しい発見 白鳳(13) 近江大津へ遷都(4)天武天皇毒殺 [神社からさぐる歴史]
前回、「お二人とも、毒殺されたという結論に至りました」と記しました。
このようなことは、何処にも書いた人はおられません。天武天皇が、天智天皇を殺したと書いてある記事は有りました。
では、その証拠と成るものは、例えば、日本書紀に書いてあるのかと云いますと、書いてありません。何所にも残されていません。
私も天智天皇が、誰かに殺されたとは思っていませんでしたが、色々のことを知る為に、丁寧に資料は読んで見ました。
そして、天武天皇は、やはり殺されたなと思いました。
どうして、「やはり」と思ったかと云いますと、古事記の序文に、次のような事が書いてあったからです。
ここに天皇詔したまひく「朕聞く『諸家のもたるる帝紀と本辞は正実と違い多くの虚偽を加うといえり』今のときにあたりてその失を改めずはいまだ幾年を経ずしてその旨滅びなんとす。これすなはち邦家の経緯王化の鴻基なり。故ここに帝紀を撰録し旧辞を検討して偽を削り実を定め後葉に伝えんと思う」とのりたまひき。
以上は、天武天皇が云われた言葉です。
そこで、古事記が作られることになったと記されています。
古事記は、712年に完成しましたが、まだ、印刷は出来無かったと思いますから、筆で書かれたと思います。
この古事記は、原本を見ながら、書き写されたと思います。従いまして、古事記を見ることが出来た人は、朝廷の人達に限られたのではと思います。しかも、少数の人だけが読む事が出来たと思います。
不思議なことに、次の年の713年に全国の国司に、「風土記」を作るように命じています。(藤原不比等が?)
少し、離れますが、随分、全国規模で調査をした上で、927年の延喜式内社の制定を決めました。(藤原不比等が?)
まだまだ、書きたりませんが、主題の「白鳳」と離れて行きますので、どうして、天武天皇が殺されたかを次に記しています。
天武天皇は暗殺された
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page935.html
いっぱい書いてきましたが、このような事は、幾らでも、考え方を変えれば、逆の証拠にもなります。
大切なことは、
① 『不比等に毒殺された天武』といの副題が見える本があります。
田村誠一氏の著書
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page600.html
ここの第21話 『燦然と輝いていた古代 ・続』
この本の37ページが、『不比等に毒殺された天武』です。
私の『天武天皇は暗殺された』より、えげつないタイトルですね。犯人の名前も、殺した方法も書いてあります。
この本は、どこかの図書館で保管されているかもしれませんが、 いくらお金を出しても買うことは出来ません。
どうして、買うことが出来ないかは、判りませんが、この本に書いてあることが、本当の事なので、許せないと思う人が、処分したと考えています。
同じ事は、古事記が編纂された時にも起こりました。
古事記は、直ぐに無くなったと推理しています。しかし、原本ではありませんが、写本と思われるものが、400年後だったと思いますが、見付かりました。
私の頭は単純です。
証拠はなくても、『古事記』と『燦然と輝いていた古代 ・続』の中に書いてあることは、正しいと考えるところから、出発しています。
先に記しました 田村誠一氏の著書
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page600.html
に記しました本は、一冊も買い求める事は出来ません。
と云うことは、田村誠一氏の解く日本の歴史は、正しいと思われます。
第18『真説 建国史』は、
これを書いています、『小さな発見・新しい発見 白鳳(13) 』の記事と、交互に書いています。 毎回、1ページで収まるように書いてある不思議な本です。
このようなことは、何処にも書いた人はおられません。天武天皇が、天智天皇を殺したと書いてある記事は有りました。
では、その証拠と成るものは、例えば、日本書紀に書いてあるのかと云いますと、書いてありません。何所にも残されていません。
私も天智天皇が、誰かに殺されたとは思っていませんでしたが、色々のことを知る為に、丁寧に資料は読んで見ました。
そして、天武天皇は、やはり殺されたなと思いました。
どうして、「やはり」と思ったかと云いますと、古事記の序文に、次のような事が書いてあったからです。
ここに天皇詔したまひく「朕聞く『諸家のもたるる帝紀と本辞は正実と違い多くの虚偽を加うといえり』今のときにあたりてその失を改めずはいまだ幾年を経ずしてその旨滅びなんとす。これすなはち邦家の経緯王化の鴻基なり。故ここに帝紀を撰録し旧辞を検討して偽を削り実を定め後葉に伝えんと思う」とのりたまひき。
以上は、天武天皇が云われた言葉です。
そこで、古事記が作られることになったと記されています。
古事記は、712年に完成しましたが、まだ、印刷は出来無かったと思いますから、筆で書かれたと思います。
この古事記は、原本を見ながら、書き写されたと思います。従いまして、古事記を見ることが出来た人は、朝廷の人達に限られたのではと思います。しかも、少数の人だけが読む事が出来たと思います。
不思議なことに、次の年の713年に全国の国司に、「風土記」を作るように命じています。(藤原不比等が?)
少し、離れますが、随分、全国規模で調査をした上で、927年の延喜式内社の制定を決めました。(藤原不比等が?)
まだまだ、書きたりませんが、主題の「白鳳」と離れて行きますので、どうして、天武天皇が殺されたかを次に記しています。
天武天皇は暗殺された
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page935.html
いっぱい書いてきましたが、このような事は、幾らでも、考え方を変えれば、逆の証拠にもなります。
大切なことは、
① 『不比等に毒殺された天武』といの副題が見える本があります。
田村誠一氏の著書
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page600.html
ここの第21話 『燦然と輝いていた古代 ・続』
この本の37ページが、『不比等に毒殺された天武』です。
私の『天武天皇は暗殺された』より、えげつないタイトルですね。犯人の名前も、殺した方法も書いてあります。
この本は、どこかの図書館で保管されているかもしれませんが、 いくらお金を出しても買うことは出来ません。
どうして、買うことが出来ないかは、判りませんが、この本に書いてあることが、本当の事なので、許せないと思う人が、処分したと考えています。
同じ事は、古事記が編纂された時にも起こりました。
古事記は、直ぐに無くなったと推理しています。しかし、原本ではありませんが、写本と思われるものが、400年後だったと思いますが、見付かりました。
私の頭は単純です。
証拠はなくても、『古事記』と『燦然と輝いていた古代 ・続』の中に書いてあることは、正しいと考えるところから、出発しています。
先に記しました 田村誠一氏の著書
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page600.html
に記しました本は、一冊も買い求める事は出来ません。
と云うことは、田村誠一氏の解く日本の歴史は、正しいと思われます。
第18『真説 建国史』は、
これを書いています、『小さな発見・新しい発見 白鳳(13) 』の記事と、交互に書いています。 毎回、1ページで収まるように書いてある不思議な本です。
2015-10-08 04:21
nice!(0)
コメント(0)
トラックバック(0)
コメント 0