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小さな発見・新しい発見 白鳳(14)  近江大津へ遷都(5)天武天皇幽閉 [神社からさぐる歴史]

 前回 古事記の序文の一部を記しました。

もう一度、書きます。

ここに天皇詔したまひく「朕聞く『諸家のもたるる帝紀と本辞は正実と違い多くの虚偽を加うといえり』今のときにあたりてその失を改めずはいまだ幾年を経ずしてその旨滅びなんとす。これすなはち邦家の経緯王化の鴻基なり。故ここに帝紀を撰録し旧辞を検討して偽を削り実を定め後葉に伝えんと思う」とのりたまひき。

「朕聞く」と書いてあります。 此処だけで判断は無理です。
この部分の前に、長い文章が有ります。素人だから読めないと云わないで、挑戦してください。
 殆どの事は、探せば、インターネットに、どなたかが翻訳して居られますが、見付かりません。
 みつけても、翻訳が間違っておられると思います。

太安万侶は、この前の部分を書いて、此処に、
ここに天皇詔したまひく「朕聞く『諸家のもたるる帝紀と本辞は正実と違い多くの虚偽を加うといえり』今のときにあたりてその失を改めずはいまだ幾年を経ずしてその旨滅びなんとす。これすなはち邦家の経緯王化の鴻基なり。故ここに帝紀を撰録し旧辞を検討して偽を削り実を定め後葉に伝えんと思う」とのりたまひき。 と記しました。
ここに書いてあった通り、天武天皇は殺されることになりました。天武天皇どころか、天智天皇も、毒殺されてました。
 
 「朕聞く」ということは、ご自分の目では、読む事は出来ないが、見た人から聞けばと云う意味になります。

天武天皇は、敵方に閉じ込められていたことになります。

白村江の戦いは、唐と新羅を相手にした戦いでした。

天智天皇が心配した通り、中国から、軍隊と共に、町造りをする人達も日本にやってきました。
 そして、天皇は、飾り物にして、大津京を建設しました。

天智天皇は、病がいよいよ深くなった10年(671年)10月17日に、大海人皇子を病床に呼び寄せて、後事を託そうとした。蘇我安麻呂の警告を受けた大海人皇子は、倭姫皇后が即位し大友皇子が執政するよう薦め、自らは出家してその日のうちに剃髪し、吉野に下ったとされていますが、
 次の部分は、如何にも下手な芝居の台詞のような思いがします。
「倭姫皇后が即位し大友皇子が執政するよう薦め、自らは出家してその日のうちに剃髪し、吉野に下ったとされていますが」

このようにしなければ、この後に、壬申の乱がありますと云う様な伏線です。

次の記事は、いかにも、天智天皇と大海人皇子が仲が悪かった様な内容になっています。
『藤氏家伝』は、ある日の宴会で激した大海人皇子が長槍で床板を貫き、怒った天智天皇が皇子を殺そうとしたという話を伝える。藤原鎌足が取りなして事なきを得たという。天智天皇7年(668年)のことと推測される[22]。

太安万侶が、古事記の序文に書いたことは、本当の事で、天武天皇は毒殺され、、天皇家は滅亡の方向に進んでいったことになりました。

天智天皇の考えで、天皇と大友皇子は、大津京に残り、大海人皇子は、吉野に逃げて体制を建てなおす計画だったと思います。
 しかし、体制など、建てなおす間もなく、追手が吉野までやってきます。



新しい日本の歴史----http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/
今、読んで頂いているブログです。 このページの左下に、検索をするためのボックがあります。
ここに、「朕聞く」を入力していただきますと、今までに、私が書いた文章の中に、「朕聞く」という言葉が出てくるものがすべて、ヒットします。
私は、太安万侶が一番力を入れて書いた部分ではないかと考えます。
藤原氏は、古事記を無くするだけではなくて、日本書紀や藤氏家伝を使って、中国人にやられたという;歴史と違う歴史を作ったように思います。

古事記の序文は翻訳された方は、おられないのではないでしょうか。
次の所から、古事記の序文No4 まで 書いたように記憶します。「朕聞く」は大切な部分だと思います。

No208 古事記の序文 [日本大好き] [編集] 
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-11-04



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