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小さな発見・新しい発見 滋賀県の式内社 [神社からさぐる歴史]

 9月と10月の連休に、滋賀県にある式内社を訪れました。
 どうして、訪ねようと思ったかは、式内社の数が多かったからです

式内社と祭神
 http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page809.html

滋賀県の式内社は伊勢や大和には敵いませんが、大和よりも多いです。 それと、行きたくなった、も一つの理由は、湖北の木之本町は父の生誕地で、戦時中、この町に疎開をしていたからです。 69年前のことです。
 小一の時の思い出ですから、あまり記憶はありませんが、お地蔵さんの前に、お琴の糸を売ってあるお店があった様に記憶します。
 しかし、戦時中の所為でしょうか、絹を作っているお家は周りにはなかった様に思いますが、養蚕が盛んであったような記憶がありました。
 時節柄、お米の生産が多かったように記憶しますが、そのような資料が見つかるかどうかです。

 この【式内社と祭神】を幾ら眺めていても、余り大した発見はありません。
例えば、山陰道560座に対して、山陽道140座は、国の面積が判りませんが、山陰道の方は、山陽道の4倍あります。
 これで分る事は、日本海側の方が、瀬戸内海よりも人が沢山住んでいたことが分かります。
 では、どうして多いのかと云いますと、確かめるのは大変です。
 人が多かったと云うことは、古墳を比べますと分ります。古墳が多いと云うことは、死んだ人が多いことになるからです。
 古墳の数が、神社と同じで、4倍であれば、納得できますが、ここの神社数は、式内社の数だけです。
 式内社でない神社はもっと沢山あります。

ここにある数字をいくら並べ変えても、何も出てきません。

縦に合計しますと、畿内は658座、東海道 731座、山陰道 560座で、多いです。
山陽道は140座で少ないです。特に、長門、周防、安芸、美作は少ないです。

美作は、全国で出土する陶棺の7割を占める地域です。陶棺は、ユダヤ人のものと思われます。

 長門、周防、安芸は神武東征のおり、神武天皇が通過した地点です。ということは、安全な地帯です。

 神武東征は、遠距離をしかも、16年も要して戦争していますから、この時には、軍隊の所在地は、正確に掴む必要があります。それと、二地点間の距離、天候の予測などが必要です。 ユダヤ人の知識がなければ、成功しなかったのではないかと推理します。
  紀元前、50年頃のことになります。

吉備国が7世紀後半に備前国、備中国、備後国に分割されて成立りつしました。 この時の備前国は、後の美作国の領域と、連島(児嶋郡都羅郷)、小豆島、直島諸島北部を含んでいた。 和銅6年(713年)4月3日に、備前守・百済王南典と備前介・上毛野堅身がともに上申して、北部の6郡の英多郡、勝田郡、苫田郡、久米郡、真嶋郡、大庭郡を割いて美作国が設けられた。

古事記が編纂されたのが、712年。次の713年に風土記の編纂の命令が出されています。
風土記を作ろうとしたのは、藤原氏で、国を分割しようとしたのも藤原氏だと思います。
 これは、古事記が出来て次の年からですから、古事記の発刊が、藤原氏を慌てさせたと推理しています。

和泉、伊賀、丹後が分割されています。分割と式内社が関係あるかどうかは、難しい所です。分割されますと、その国は、小さくなりますから、勢力は衰えます。式内社の数は、増える筈ですが、式内社が元々少ない所ですから、藤原氏は、式内社をよう作らなかったのではないすと考えます。

丹後国は、竹野郡に二社あるぐらいです。丹後国は、別の理由で、分割が行われたと考える必要がありそうです。
丹波、但馬、丹波は、式内社に限らず、藤原氏と関係があると思える祭神が目に付きます。

青と赤の色分けをしました。 青は天皇家の勢力が強かった様に思われます

ただ、ここまでに書きましたことは、全部確認したわけではありません。

次回に、湖北を訪れた時のことを書きます。

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