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小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(29) 分析(2) [古墳から探る歴史]

タイトルの(分析)は、なにを分析をするのかという意味です。
 
これまで一杯のことを書き過ぎて、読んでいただいている皆さんもなにが書いてあるのかを分らないのではと思っています。

少し以前から、小出しに書きました。なにを書いてあるか憶えておられますか。天智天皇が、大津市に住んで居られた事は遺蹟の発掘で分っています。しかし、本当に住んでおられたどうか分りません。

 その証拠となるものが、林 博通著 『大津京』に書いてありましたら、順番に紹介しています。

群臣を内裏に宴す----天智天皇7年1月3日 
七年春正月丙戌朔戊子、皇太子卽天皇位。或本云、六年歲次丁卯三月卽位。壬辰、宴群臣於內裏。戊申、送使博德等服命。

②.浜台(はまのうてな)の下に、もろもろの魚、水を覆いて至る—天智天皇7年7月

大蔵に災けり -----天智8年12月
十二月、災大藏。是冬、修高安城、收畿內之田税。于時、災斑鳩寺。

大きに宮門内に射る -----天智9年正月7日
 九年春正月乙亥朔辛巳、詔士大夫等、大射宮門內。

殿の前に進みて、賀正事(よごと)を奏す----天智10年正月庚子
十年春正月己亥朔庚子、大錦上蘇我赤兄臣與大錦下巨勢人臣進於殿前、奏賀正事。

大錦上蘇我赤兄と大錦下巨勢人臣と、殿の前に進めて、賀正事奏す------天智10年正月庚子
十年春正月己亥朔庚子、大錦上蘇我赤兄臣與大錦下巨勢人臣進於殿前、奏賀正事。

⑦-2  漏刻を用いる------天智10年4月辛卯
夏四月丁卯朔辛卯、置漏剋於新臺、始打候時動鍾鼓、始用漏剋。此漏剋者、天皇爲皇太子時、始親所製造也、

⑧ 西の小殿に御す------天智10年5月辛卯
五月丁酉朔辛丑、天皇御西小殿、皇太子・群臣侍宴。於是、再奏田儛 五月丁酉朔辛丑、天皇御西小殿、

百仏の眼を開けたてまつる   天智10年8月7日。
十月甲子朔庚午、新羅遣沙飡金萬物等、進調。辛未、於內裏、開百佛眼。

 書く項目の言葉が、日本書紀の年月の所に書いてありますと、その後ろに原文を記しておきました。

それぞれの解説は、『神話でなかった古事記』 http://blog.goo.ne.jp/skeikas
に書いています。
 
まだまだ続きますが、すべて、日本書紀に掲載されている言葉です。これらの言葉は、天智天皇と関連のある言葉ですから、天智天皇は、大津にすんで居られた様ですが、大津京という言葉は、日本書紀には出てきません。


次のタイトルの冊子を見付けました。
 大津歴史博物館 『研究紀要 5』 1997記事は 4人の方が書いて居られますが、トップは 松浦 俊和
タイトルは 近江大津宮新 『京域』論 

大津京という言葉は、日本書紀の天智天皇も天武天皇の記事にもありませんから、スタートして書いて居られます。
 『大津京』とい京言葉は使っておられませんが、始めて目にする『京域』という言葉がタイトルに使われています。
 『大津京』と使うことは出来ませんが、『大津京』と思われる『京域』についての論文になります。

 林 博通著 『大津京』は、昭和59年9月の発行です。昭和59年は、1984年となりますから、 林 博通著 『大津京』が発刊されてから、13年後の研究論文になります。

 林 博通氏は、 林 博通著 『大津京』の後に、研究をされて、「大津京」のタイトルを含む4冊の本を出版されています。1978年1982年、1983年、そして1983年に『大津京の実態を探る』を発刊されています。
 
このように、大津京の存在は完璧かと思われた後に、松浦 俊和の大津歴史博物館 『研究紀要 5』 1997 が発刊された事になりますが、大津京の言葉は無くて、近江大津宮新 『京域』論 になっています。

 本来なら、皆さんの論文は、すべて目を通すべきですが、素人の頭では無理だなと思い始めています。

 そこで、私なりに、大津京は無かったことを駄目押しする為に、1月10日~11に大津へ行ってきたことも踏まえて、見て来たことを書いてみようと思います。

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