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新羅と伯耆が最短コース   80  -112- [真説 建国史]

新羅と伯耆が最も渡り易いコースである。 三国史記の新羅の193年に倭人が食に飢えて千人以上の人がやって来たと書かれている。これは倭人が食に飢えて千人以上の人がやって来たと書かれている。これは倭人と新羅とが交友関係にあったし、倭人は伯耆が本拠地だったから、ここから新羅を往復した証拠である。 海上保安庁の海流図によれば春から夏にかけての日本海はおだやかで山陰沖は海流がなくて湖と同じことだった。現在でも韓国からの密航者が小舟でこの海岸にやってくる。 対馬海流は流れが速くて仲々渡り難い。かって朝日新聞社は魏志倭人伝と同じ様な船を野生号と命名して京城から九州に実際にこいで渡る実験をした。この時野生号は対馬海峡が早くてボート部の選手でもだめで一部モーターボートで引張ってもらった。 九州からは黒潮の上流の松浦半島からは渡り易いのである。九州と朝鮮が地理的に最短だけの理由で、主観だけで古代史を論じないことだ。朝鮮南岸から山陰が最も渡り易いことを古代史に反映させることである。


--- 私のコメント ---
おわかりになられましたか。文章を読めばなるほどと思われるでしょうが、実際に、海上保安庁の海流図を取り寄せて、見られれば解ります。海図を見ても解かりません。 それよりも、ヨットを持って、日本海を走って居られる方に、お話を聞いた方が、判ると思います。

田村氏は、関係ない3つの事から、一つの推論をして居られます。
①三国史記の新羅の193年に倭人が食に飢えて千人以上の人がやって来たことが書かれている。
②海上保安庁の海流図によれば春から夏にかけての日本海はおだやかで山陰沖は海流がなくて湖と同じことだった。
③野生号は対馬海峡が早くてボート部の選手でもだめで一部モーターボートで引張ってもらった。

 以上の事から、
倭人と新羅とが交友関係にあったし、倭人は伯耆が本拠地だったから、ここから新羅を往復した証拠である。----の結論を、この短い文章で書いて居られます。
 
韓国の人と日本人は、193年の頃から、行き来をしていたと書いて居られます。
そんなことは、当たり前と思われるでしょうが、新羅より、少し、北の方の北朝鮮の人らしいですが、それも、船は小さな漁船ですが、日本に辿りついています。どうやら、軍人のようにも思われますが、不思議だと 次の様に、NHKは報道しています。

漂着相次ぐ 北朝鮮の漁船か
http://www9.nhk.or.jp/nw9/marugoto/2015/11/1125.html

不思議なことではありません。春ですと、湖のような日本海は、中国から出発すれば、漕がなくても、4日で、隠岐~福井県あたりまで、漂着することを、田村氏は著書に書いて居られます。

なのに、冬は危険な海であることをNHKの記者はご存じ無いだけです。

所が、新羅の人も日本人も、これらのことを知っていたと云うのは、驚きと言うほかありません。

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