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福岡の沖ノ島の宗像神社は偽証   88  -120- [真説 建国史]

古事記では大国主神は胸形の奥津宮の多紀理姫(紀—田心姫) を妃にされた。米子の宗像の宗形神社は旧社名が胸形であった。しかも伯耆には6社しかない式内社で、奥津宮にふさわしい奥谷の地名もあった。 ここも中臣勢力の伯耆における重要な挙点゛ったことになる。しかし福岡県に宗像郡の地名もあって絶海の孤島沖の島に宗像大社があった。この様な絶海の孤島まで大国主神が訪れて多紀理姫を妃に選ばれただろうか。この宗像大社も式内社だから偽証目的で後世に作られたと考えてよい。  大国主神は出雲に沼河日売の許にデートに出かけられた。この時に二人の間で歌のやりとりがあって、如何に古代人は文学的素養があったかに驚かされる。 この時に出雲より倭国に出発する時に、歌を読まれている。問題はここに倭国と書かれていたことだ。この時の倭国とは西伯郡の大国村倭を代表する国のことである。  大国村倭は大物主神が渡来した時にも登場する古い地名だった。

---私のコメント---
「宗像大社も式内社だから偽証目的で後世に作られたと考えてよい」
どうしてこの様なことが言えると思われますか。式内社は、3000弱、全国にあります。この神社をすべて、参拝しようと思っていましたが、体力的に無理なことが分りました。
若いお方は、せめて、500社でも参拝されたら、歴史の知識はゼロでも自然と解って来ると思います。
田村氏は勿論、一杯行かれたと思いますが、其の時に、

「古事記では大国主神は胸形の奥津宮の多紀理姫(紀—田心姫) を妃にされた。米子の宗像の宗形神社は旧社名が胸形であった。しかも伯耆には6社しかない式内社で、奥津宮にふさわしい奥谷の地名もあった」を見付けられたのだと思います。

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