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遣隋使、小野妹子 日向浦に帰来   90  -122- [真説 建国史]

古代史を解くのに中国の文献、隋書を先づ取上げたい。推古天皇の御世に聖徳太子が607年に小野妹子を使者として隋に派遣した。 この時「日出る所の天子、書を日没する所の天子に致す。つつがなきや」の聖徳太子大使の国書を、隋の皇帝に渡した。 この翌年この国書の申出に従って隋の使者が小野妹子と帰来した。この時の様子が隋書に書かれている。 「明年、上、文林郎裴清」を遣わして倭国に使せしむ。百済を度り行きて竹島に至り、南に [身冉]羅國を望み、都斯麻穀(対馬)を経、遥かに大海中にあり、又東して一支国(壱岐)に至り、又竹斯国(筑紫)に至り、又東して秦王国に至る。その人華夏に同じ、以って夷洲となすも、疑うらくは明らかにする能わざるなり。又十余国を経て海岸に達す。竹斯国より以東皆倭に付庸す。」 この文章で筑紫より更に東に航海して、上陸した所から十余国を経て再び海に出ている。これこそ伯耆の日向浦で上陸して伯耆街道を十余国を経由して大阪湾に達したことだ。


---私のコメント---
『竹斯国(筑紫)に至り、又東して秦王国に至る』と云うことは、九州から、日本海を北上したことに成ります。
問題は「秦王国」です。日本の資料では秦王国は有りません。
「」
「明年、上、文林郎裴清」と書かれていますから、「秦王国」へ行ったのは、
文林郎裴清です。隋の人ですから、秦王国の人は、一目で、中国(華夏)の人であることが分ったと書いています。なのに、どうして「夷州」といのか分らないと文林郎裴清が書き残したことに成ります。
「夷州」とは、野蛮な国と、蔑視した云い方でしょう。

「夷州」に着いてから、

訳文 明年、上、文林郎裴清を遣し 國に使せしむ。百濟を度り、行きて竹 に至り、南に 羅國を望み、都斯麻國を經て、迥かに大海の中に在り。又、東に一支國に至り、又、竹斯國に至り、又、東に秦王國に至る。其の人華夏に同じ。以って夷州と爲すも、疑うらくは明らかにする能わざる也。又、十餘國を經て、海岸に達す。竹斯國より以東は、皆な に附庸す。

「又、十餘國を經て、海岸に達す。竹斯國より以東は、皆な に附庸す」の部分は、田村氏の云われる通り、上陸してから、陸路を歩み、海に出たと云いますから、すくなくとも瀬戸内海に出たことになりますが、是ですと、10ヶ国もありませんから、大阪となるでしょうか。

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