鮮卑族の王朝の隋に支援を求む 92 -124- [真説 建国史]
わたし達は祭神が異民族を祀っていたと分れば、お参りするだろうか。出雲の187社有った式内社の祭神はスサノオ命の一族か素生が全く分らない神である。スサノオ命が高句麗人だったから氏子は当然この民族が主もで、隋書で秦王国と書かれてよい証拠があった。紀元前漢が北鮮に元莵、臨屯、真番、楽浪の4郡の植民地を置いたが、これらの国の中に高句麗系、秦族系等の細かい相違があったと考えたいのである。
隋の使者が渡来した時には九州は漢族のゲリラのボスが占領していたので、鮮卑族系の隋の使者が筑紫で上陸できる筈がなかった。
聖徳太子は隋の支援を頼むために小野妹子を使者に出したとすれば、矛盾は何一つ見付からなかった。
この聖徳太子がどのような運命をたどったかは梅原 猛氏の〝隠された十字架〟は極めてしさに富む書物である。藤原の言論統制下に書かれた文献は全て裏を読まないことには真実が解ける筈がない、はたしてこの様な裏を読んだ学者があっただろうか。
---私のコメント---
124ページは、123ページの続きです。
此処の所、私も意味が分るよで判りませんね。
---私のコメント---
124ページは、123ページの続きです。
此処の所、私も意味が分るよで判りませんね。
2016-02-24 05:09
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