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天皇の敵、河内の志紀宮のボスは中臣   94  -126- [真説 建国史]

 古事記では先づ神武天皇の記述について、しかも古事記だけにしか書かれていない記述で証拠が全て見付かった。この古事記で21代雄略天皇の敵が河内におったと書かれている。しかもこの記述は日本書紀にはなかった。  記によると雄略天皇の皇后がまだ河内の日下におられる頃、生駒山の直越の道(暗り峠)から行幸された。この時山上から見下ろし所、天皇と同じ屋根にカツオ木を乗せた家があったので焼かせた。  カツオ木を乗せた家は現在の伊勢神宮に見られ、天皇だけが使用されていた。この河内の人物が「志紀の大県主」である。志紀郡と大県郡があったから、ここを天皇の敵が本拠地にしていたのである。ここに国府跡があり、これが藤原の本拠である。鎌足が大化の改新のクーテタを行った時に国造が当然国府跡の地点を本拠にしたと考えてよい。  天皇の敵が藤原でしかも河内が本拠地で出雲も藤原の支配下だった証拠である。



---私のコメント---
こんな記事は、殆どの方は、納得できないのではないかと思います。 特に、河内の方は反対されるでしょう。 〔天皇と同じ屋根にカツオ木を乗せた家があったので焼かせた〕
この文章が、その証拠だと言われても、納得できないと思います。

カツオ木とは、何だと思われる方もおられると思います。

今日から、毎日、一年間、三つの神社を訪問されたら、自然と、神社の違いが解かってくると思います。その時は、神社だけではなくて、町全体を歩かれると違いが解かってくると思います。 特に、式内社を入れるようにされますと、違いが分ると思います。

〔出雲も藤原の支配下〕は、出雲の式内社を全部行かれますと、少しは理解できるのではないかと思います。






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