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河内の遺跡は革命軍の証拠   95  -127- [真説 建国史]

  藤原が作成した〝新撰姓氏録〟では国別にどの様な氏族が住んでいたかが書かれている。これで河内に圧倒的に多かったのが中臣である。  これも藤原が制定した式内社が河内に113社もあった。この祭神や由緒を志賀 剛氏が〝式内社の研究〟に書いておられる。この神社には天皇からではなくて藤原(中臣)から軍資金が幣帛料の名目で授与される。河内でも八尾、柏原、藤井寺に式内社は密集している。旧大和川は河内を北に流れ淀川に合流していた。この流域を藤原は式内社の氏子で堅めて天皇勢力が大和に行くことを防止していた。河内の遺跡は稲作民族の遺跡ではない。 ここの遺跡は軍隊が分隊単位に分散して集落を作っている。  紀の川に大倉庫が出土したが、ここに讃岐で取れた米等を貯蔵していた。大和から攻められることのない後背地に倉庫は設けられていた。河内でも、南部は物部勢力で、太子町周辺が天皇勢力である。河内は総括的に取り扱うことは間違いのもとである。

---私のコメント---
①<河内に圧倒的に多かったのが中臣である> はまだ、調べていません。

②<藤原が制定した式内社が河内に113社もあった>
   式内社と祭神 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page257.html 
 まだ、未完成です。祭神を眺めてください。

③<この流域を藤原は式内社の氏子で堅めて天皇勢力が大和に行くことを防止していた>
 この考察は抜群です。 これと同じことが、出雲でも見られます。これで、出雲の謎が、少しは解けることになります。式内社から歴史を分析しますと、新しい発見が出来るのではと考えます。
出雲の式内社もご覧ください。
  式内社と祭神 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page257.html


④<河内は総括的に取り扱うことは間違いのもとである>
 この部分は、今日始めて、なるほどと思った部分です。

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