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小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(48) [古墳から探る歴史]

 ウィキペディアに依ると 大津市には、つぎのような古墳が有ります。
• 唐臼山古墳(大津市、古墳後期、被葬者を小野妹子とみる説がある)
• 皇子山古墳(大津市、前方後方墳、国の史跡)
• 春日山古墳群(大津市、国の史跡)
• 茶臼山古墳(大津市、、国の史跡)
• 子茶臼山古墳(大津市、国の史跡)
• 国分大塚古墳(大津市、市指定史跡)前方後円墳 6世紀中頃

外に、百穴古墳群 が有ります。
http://www.bell.jp/pancho/travel/oumi/hyakketu%20kofungun.htm  
此処だけで、500の遺跡があるように書いてある資料が有ります。 はじめは、10基ぐらい見て帰宅しましたので、もう一度、行き直しました。 山の上まで、歩いてみましたが、全体は把握出来ませんでした。


その後、大津市北郊外 では、次の古墳や遺跡を見付けました。

裳立山古墳群  もたてやまこふんぐん
時代   古墳
所在地
滋賀県大津市坂本本町   緯度経度   35.064722, 135.856833
遺構概要
map96:古墳群(円墳8)、横穴式石室。<現況>山林。<立地>山腹。
その他概要
map96:201-095、5、林屋辰三郎他編(『新修大津市史』第1巻・第3巻・第7巻・第8巻・第9巻 大津市役所1978〜1987)


日吉古墳群  http://obito1.web.fc2.com/ootusakamoto.html大津市坂本の日吉大社境内に広く分布する古墳群です。大社は西宮と東宮とに分かれていますが、古墳も丁度それぞれの周辺に残されています。西宮付近では、社へ向かう参道の途中に、1基あり、横穴式石室の石材が露出しています


穴太遺蹟  http://obito1.web.fc2.com/ootusakamoto.html
大津市穴太一丁目、京阪穴太駅の東一帯にある穴太遺跡の範囲内から、2014年に六世紀頃の未知の円墳が見つかりました。墳丘はすでに削平され、横穴式石室の基底部のみが出土。石室は全長5.4m、玄室長3.6m、幅2.4m、羨道長1.8m、幅1mの右片袖式で、石材をドーム状に積んでいたと思われます。

別の資料に依りますと、
663年の白村江の戦いの後,667年3月中大兄皇子は都を飛鳥から近江へと遷都します。そして翌年1月に天智天皇として即位しました。

二つの資料から、穴太遺蹟の住居は、堅穴住居で、掘立柱建物だったのでしょうか。俣、オンドルを備えた住居だったのでしょうか。
 まだまだ、詳細に分析をする必要が有りそうです。

上高砂遺跡  かみたかさごいせき
弥生時代
所在地   滋賀県大津市高砂町  (滋賀里と南滋賀の間)
緯度経度   35.039889, 135.855333
遺構概要
県年報(弥生末-方形周溝墓、古墳-水田・掘立柱建物・竪穴住居)。 map96:竪穴住居・環状遺構。 歴博報56、不明-古墳-包含層。 <現況>水田 。<立地>山麓。
遺物概要
県年報(古墳-韓式系土器)。map96:円面硯。 歴博報56、方格規矩鏡(銘文なし、破片、1988年発掘、大津市教委蔵、破砕鏡)
発掘概要
都市計画道路建設

その他概要
県年報-1995.3。map96:201-145、5、 細川修平他「154.昭和62年度滋賀県下における発掘調査の紹介その1」(『滋賀文化財だより』No.125 (財)滋賀県文化財保護協会1988)、西田弘「近江の古鏡IV」(『文化財教室シリーズ』(111) (財)滋賀県文化財保護協会1990)、 大津市教委編「埋蔵文化財包蔵地分布調査報告書III」(『大津市埋蔵文化財調査報告書』(22) 大津市教委1992.3)、 大津市教委編「上高砂遺跡発掘調査報告書」(『大津市埋蔵文化財調査報告書』(20) 大津市教委1992.3)、 須崎雪博「204.平成4年度滋賀県下における発掘調査の紹介その1」(『滋賀文化財だより』No.182 (財)滋賀県文化財保護協会1993.4)、 歴博報56(1994)

畑尻遺蹟  大津市教育委員会, 1974 発行 『 畑尻遺跡』

この中で、凄いのは、上高砂遺跡 です。
この遺跡は、弥生時代と書いてあります。 此の頃から、大津市は、中国と朝鮮半島からの人がやって来ていたことが分ります。
ただ、穴太、大友、錦織の辺りは、「白村江の戦い」前後に、移住して来た人達ではないかと考え始めてます。

 結論を先に記しますと、中大兄皇子は、「白村江の戦い」で大敗してから、滋賀県の此の地まで、逃げて来たのではないかと推察します。

そして、住処は錦織二丁目において、多くの建物が見付かっています。その建物に使われた後は、大きな寺院などに使われる太い穴や礎石が残っていますから「大津宮」の趾と決定されました。

 日本書紀には、大津に遷都をしたと書かれているために、都を大津に遷した。そして、大津京を造り、天智天皇になったとされています。

朝鮮半島は、百済か新羅の人がやって来たのではないかと推理していますが、宮殿は、中国人ばかりが居てる穴太、大友、錦織の真ん中に、天智天皇、大友皇子、大海人皇子をはじめとする人々が、漢人に幽閉されていたのではないかと推理しています。


ここに挙げました古墳から見つかった遺物と同じ物が、大阪府の河内というところから見付かっている。古事記にも書いてあることを上げて、田村誠一氏は、著書に大津と河内の関連性を書いて居られます。

遺蹟の分析は、私はしていませんが、田村氏は『[真説 建国史]』に於いて、
次のような結果を、記して居られます。

河内の遺跡は革命軍の証拠   95  -127-
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2016-02-27

天皇の敵、河内の志紀宮のボスは中臣 
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2016-02-26

遺蹟の分析は、私はしていませんが、分析の結果を元にして、著書[真説 建国史] に於いて、

 大津宮は、大津市の錦織町に有ったことが分りましたが、これだけの古墳が有ると云うことは、これらの古墳に埋葬されていた人と、大津宮は関係なかったと判断するのは無理でしょう。

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