小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(136) 壬申の乱(87) [古墳から探る歴史]
林 博通氏は二冊の [大津京]のタイトルの本を出して居られます。
①〔さざなみの都 大津京〕 昭和53年11月15日
② 考古学ライブラリー 27 〔大津京〕昭和59年9月20日
前回、大津京に関する研究者を見て頂きました。
①に於いては、林 博通氏は、他の方の研究を列挙して、皆さんは、大津京が有った様に述べておられますが、ご自分は、大津京はなかったような研究を発表して居られます。
所が、6年後に書かれた②でも、他の方の研究を紹介して居られます。 他の皆さんは、大津京があったとは書いてありませんが、あったことを前提にして、崇福寺と梵釈寺が現在の大津の何所にあったかを追求して居られます。
崇福寺創建の縁起 http://oumijingu.org/publics/index/112/ より記事をお借りしますと
大津京の乾の鎮めとして天智天皇の勅願により創建されたと伝える。『扶桑略記』『今昔物語』などに創建説話が掲載されている。志賀の山寺として、平安時代を通じて多くの都人が往来した志賀越え山中の名所であった。
波にたぐふ鐘の音こそあはれなれ夕べさびしき志賀の山寺 藤原良経
『扶桑略記』によると、天智天皇7年(668)の創建とされる。平安初期には、東大寺・興福寺・薬師寺などと並ぶ十大寺の一つとして朝野の信仰が厚く、弥勒信仰の聖地として繁栄した。その後火災・地震等で焼失・倒壊と再建を繰り返しながらも国家的な保護・崇敬が続聖けられていたが、鎌倉初期には園城寺の支院とされ、室町時代には廃絶することになる。
この事から、崇福寺の位置が判りますと、大津京の位置が判ります。
林 博通氏が、 考古学ライブラリー 27 〔大津京〕昭和59年9月20日
をどうして、『大津京』のタイトルで、2冊目を出版されたのかを知りたくて、考えています。
大津京のことを知りたくて、早くから林 博通氏の二冊の本は、購入して、何度も読んでいましたが、素人には難しい本でした。
出来るだけ、大津京の事を知りたくて、早くから、次の本を購入して読んでいました。
田辺昭三著 『よみがえる湖都』大津の宮時代を探る
発行 昭和58年12月01日
しかし、この本は、大津京の字は、タイトルにありませんから、拾い読みをして、都合の良い所のみ、頭に取り込んでいました。
ところが、この本の発行日が、発行 昭和58年12月01日でした。
考古学ライブラリー 27 〔大津京〕昭和59年9月20日
林 博通氏は、田辺昭三氏の 『よみがえる湖都』大津の宮時代を探る の著書を読まれた上で、9ヶ月の後に、 考古学ライブラリー 27 〔大津京〕昭和59年9月20日を出版された事になります。
林 博通氏は、二冊目も又、大津京は無かったような事を記しながら、ズバリ、副題は無くて、『大津京』だけにされたのでしょう。
林 博通氏は、田辺昭三氏に反論を書かれたのだと、考えて、林 博通氏の二冊を読み直しました。
私の目に入ったものは、「大津京の研究をした人」の記事でした。
林 博通氏は、
①〔さざなみの都 大津京〕 に記された研究者のお名前や、研究された事柄は、そのままの記事を ② 考古学ライブラリー 27 〔大津京〕 に掲載して居られました。
林 博通氏は、田辺昭三著 『よみがえる湖都』大津の宮時代を探る に対する反論ではなくて、「大津京の研究をした人」の記事をだぶって、上げることに依って、やはり、「大津京」は無かったのだが、やはり、日本書紀には書かれませんでしたが、大津京はあったのだと書かれたのだと判断しました。
しかし、今日(平成28年9月24日)1時30日に、『大津京』を読み直していましたら、
『大津京』のp140 に於いて、<寺院の役割>のタイトルで、崇福寺は防御の役割を持っていたのではないかとの記事を書き、 p142では、<防御の都大津京>のタイトルで記事を記し、最後のページでは、
次のように書いておられます。
こうみると、近江遷都は、唐、新羅に対する防御対策の一環としての遷都で合ったと考えられ、大津京は防御的色彩の強い都であったと想定されるのである。
この文章で、考古学ライブラリー 27 『大津京』は終わっています。
と云う事で、見事、林 博通氏は、田辺昭三著 『よみがえる湖都』大津の宮時代を探る に書かれたことに反論された事が判りました。
田辺昭三氏は、『よみがえる湖都』大津の宮時代を探る の中で、どのように書かれたのかと云いますと、本を購入して戴いて、読んで頂くしかありません。
中古ですと、1円と記されています。
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%88%E3%81%BF%E3%81%8C%E3%81%88%E3%82%8B%E6%B9%96%E9%83%BD%E2%80%95%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E3%81%AE%E5%AE%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%82%92%E6%8E%A2%E3%82%8B-NHK%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-448-%E7%94%B0%E8%BE%BA-%E6%98%AD%E4%B8%89/dp/4140014482
簡単に書きます、白村江の戦いで、日本に勝った唐は、日本を占領して、沢山の山城を自分達の防御の為に、造り、大津に 天智天皇を移動させて、自分達の身を守ろうとしたという歴史のシナリオも考えられると書いただけで、林 博通氏が反論するお話ではありませんでしたが、反論しませんと、それまでの林 博通氏の研究は、無になってしまいます。
やはり、反論されたのだなと思いながら、書いています。
①〔さざなみの都 大津京〕 昭和53年11月15日
② 考古学ライブラリー 27 〔大津京〕昭和59年9月20日
前回、大津京に関する研究者を見て頂きました。
①に於いては、林 博通氏は、他の方の研究を列挙して、皆さんは、大津京が有った様に述べておられますが、ご自分は、大津京はなかったような研究を発表して居られます。
所が、6年後に書かれた②でも、他の方の研究を紹介して居られます。 他の皆さんは、大津京があったとは書いてありませんが、あったことを前提にして、崇福寺と梵釈寺が現在の大津の何所にあったかを追求して居られます。
崇福寺創建の縁起 http://oumijingu.org/publics/index/112/ より記事をお借りしますと
大津京の乾の鎮めとして天智天皇の勅願により創建されたと伝える。『扶桑略記』『今昔物語』などに創建説話が掲載されている。志賀の山寺として、平安時代を通じて多くの都人が往来した志賀越え山中の名所であった。
波にたぐふ鐘の音こそあはれなれ夕べさびしき志賀の山寺 藤原良経
『扶桑略記』によると、天智天皇7年(668)の創建とされる。平安初期には、東大寺・興福寺・薬師寺などと並ぶ十大寺の一つとして朝野の信仰が厚く、弥勒信仰の聖地として繁栄した。その後火災・地震等で焼失・倒壊と再建を繰り返しながらも国家的な保護・崇敬が続聖けられていたが、鎌倉初期には園城寺の支院とされ、室町時代には廃絶することになる。
この事から、崇福寺の位置が判りますと、大津京の位置が判ります。
林 博通氏が、 考古学ライブラリー 27 〔大津京〕昭和59年9月20日
をどうして、『大津京』のタイトルで、2冊目を出版されたのかを知りたくて、考えています。
大津京のことを知りたくて、早くから林 博通氏の二冊の本は、購入して、何度も読んでいましたが、素人には難しい本でした。
出来るだけ、大津京の事を知りたくて、早くから、次の本を購入して読んでいました。
田辺昭三著 『よみがえる湖都』大津の宮時代を探る
発行 昭和58年12月01日
しかし、この本は、大津京の字は、タイトルにありませんから、拾い読みをして、都合の良い所のみ、頭に取り込んでいました。
ところが、この本の発行日が、発行 昭和58年12月01日でした。
考古学ライブラリー 27 〔大津京〕昭和59年9月20日
林 博通氏は、田辺昭三氏の 『よみがえる湖都』大津の宮時代を探る の著書を読まれた上で、9ヶ月の後に、 考古学ライブラリー 27 〔大津京〕昭和59年9月20日を出版された事になります。
林 博通氏は、二冊目も又、大津京は無かったような事を記しながら、ズバリ、副題は無くて、『大津京』だけにされたのでしょう。
林 博通氏は、田辺昭三氏に反論を書かれたのだと、考えて、林 博通氏の二冊を読み直しました。
私の目に入ったものは、「大津京の研究をした人」の記事でした。
林 博通氏は、
①〔さざなみの都 大津京〕 に記された研究者のお名前や、研究された事柄は、そのままの記事を ② 考古学ライブラリー 27 〔大津京〕 に掲載して居られました。
林 博通氏は、田辺昭三著 『よみがえる湖都』大津の宮時代を探る に対する反論ではなくて、「大津京の研究をした人」の記事をだぶって、上げることに依って、やはり、「大津京」は無かったのだが、やはり、日本書紀には書かれませんでしたが、大津京はあったのだと書かれたのだと判断しました。
しかし、今日(平成28年9月24日)1時30日に、『大津京』を読み直していましたら、
『大津京』のp140 に於いて、<寺院の役割>のタイトルで、崇福寺は防御の役割を持っていたのではないかとの記事を書き、 p142では、<防御の都大津京>のタイトルで記事を記し、最後のページでは、
次のように書いておられます。
こうみると、近江遷都は、唐、新羅に対する防御対策の一環としての遷都で合ったと考えられ、大津京は防御的色彩の強い都であったと想定されるのである。
この文章で、考古学ライブラリー 27 『大津京』は終わっています。
と云う事で、見事、林 博通氏は、田辺昭三著 『よみがえる湖都』大津の宮時代を探る に書かれたことに反論された事が判りました。
田辺昭三氏は、『よみがえる湖都』大津の宮時代を探る の中で、どのように書かれたのかと云いますと、本を購入して戴いて、読んで頂くしかありません。
中古ですと、1円と記されています。
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%88%E3%81%BF%E3%81%8C%E3%81%88%E3%82%8B%E6%B9%96%E9%83%BD%E2%80%95%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E3%81%AE%E5%AE%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%82%92%E6%8E%A2%E3%82%8B-NHK%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-448-%E7%94%B0%E8%BE%BA-%E6%98%AD%E4%B8%89/dp/4140014482
簡単に書きます、白村江の戦いで、日本に勝った唐は、日本を占領して、沢山の山城を自分達の防御の為に、造り、大津に 天智天皇を移動させて、自分達の身を守ろうとしたという歴史のシナリオも考えられると書いただけで、林 博通氏が反論するお話ではありませんでしたが、反論しませんと、それまでの林 博通氏の研究は、無になってしまいます。
やはり、反論されたのだなと思いながら、書いています。
2016-09-26 03:46
nice!(0)
コメント(0)
トラックバック(0)
コメント 0