SSブログ

閑話をもう一度 [古墳から探る歴史]

 今日は お願いです。
 ブログでは、何度か、田村誠一氏のことを書いたかもしれません。田村氏のことを書いて、田村氏が残された日本の歴史を、覗いて頂ければと思っています。

 その前に、前回かきました大津市の【大津宮遷都】天智称制6年(667) 3月19日 の事です。天智天皇が住んで居られた所は、錦織二丁目でみつかりました近江大津宮錦織遺蹟
 http://www.bell.jp/pancho/travel/oumi/ootunomiya.htm
は、確定していますから、納得出来るのですが、後の八ツの遺跡がどうして、ばらばらに離れていたのでしょうと云う疑問です、
 理由はお解りに成られましたか。

このような疑問を呈した方が居られることも聞いたこともありません。

田村氏は、天智天皇の時代は、征服された中国人に、錦織の遺跡のところに幽閉されていたと著書に書いて居られます。
 それだけであれば、近江大津宮錦織遺蹟の周り一杯、遺蹟が発掘されてもいいですが、9ヶ所に分れて、見付かっています。
確か、この周りは、100ケ所ほど、発掘されたと書いたものを読んで記憶があります。 その100ケ所でなにが発掘されたのか、なにも発掘されなかったかで、随分歴史は変わってきます。
普通は、異物が発掘されなかった時は、公開されないでしょう。 なにもない所を100ケ所も掘ってなにをしていたのだ。 お金はいくらかかったのだとメディアは書くでしょう。

 例えば、弥生時代のものは、一杯出たのですが、7世紀の頃のものは出てなければ、次のような想像もできます。
 そこで、頭の悪い私の推理ですが、天智天皇の家族を初めとして、あらゆる縁者、特に、兵士は、バラバラに住まわせたと考えます。 この部分のことを 日本書紀は、「鼠の移動」として書いたのでしょう。多くの者は殺されたと思いますが、其の時に、天皇の住居として、直径が30cmもある宮殿が造られたと推理します。 この時に使った大工を初めとして、監視・警備を行ったのは、唐によって、滅ぼされた百済の人ではなかったかと考えます。
 
 如何にも遷都した様に、立派な宮殿も造られたのですが、こうした宮殿は、五年後には、壊される事となりました。
 必要無くなりましたから、全て、壊されたた筈ですが、殆どの柱は、抜き取られた跡が残っており、再利用されたと思われます。

天智天皇は、征服された中国人に、錦織の遺跡のところに幽閉されていたと考えられた田村誠一氏は、どのような方なのかを次回に見て頂こうと思っています。





nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。